戦前は恐ろしい社会だったと教えられた戦後日本人

戦前は普通。旧ソ連中共北朝鮮のような恐ろしい国ではありません。


 小林よしのり著「天皇論」の中で小林氏が美容室で髪を切ってもらっているとき、美容師と世間話になり、その美容師がこんなことを述べていたと書いています。
 
北朝鮮、危ないですよね〜」「戦前の日本も同じだったんですからねえ」「天皇を神様にして戦争しちゃって」

 私自身も戦中、戦前というのは軍部独裁で庶民はないがしろになり、自由がなく、情報も思想も統制され、恐ろしい社会だったと教えられてきました。そして敗戦によってGHQが解放した、と。こういう認識を持った人がまだまだ多いのでしょう。

 大東亜戦争中、東條英機首相は首相官邸から街へ出て、魚河岸に鰯があるか、赤ん坊の”おしめ”の心配に耳を貸したりしています。物資不足を心配し、国民の様子を観察しています。昭和18年の初頭、東條は親しい友人に「(戦争に)敗れるのは陸海軍の抗争と、国民の厭戦(えんせん)気分だな」と語っています。つまり国民感情は政治に対して大きな影響力を持っていたということです。日本は明治天皇の五箇条のご誓文、自由民権運動を経て、民主的な大日本帝国憲法が発布され、大正デモクラシーなどがあり、民主主義が醸造されていました。大東亜戦争期間は戦時体制としてそれが抑制され、「国家社会主義」に寄っただけです。
 
 情報統制も軍事情報は大本営発表しか報道できませんでしたが、戦争中ではどこの国も軍事情報はコントロールするもので、戦果は報告を集計するといいほうに解釈し勝ちで過大なものになりやすく、被害は敵にその情報が伝わると弱みを教えることになるので、抑制して発表されるものです。真珠湾攻撃で米国は当初は被害状況を伏せ、幾分解除するとどの戦艦が撃沈されたか報道できるようになっています。日本からジェット気流を利用した風船爆弾の被害を米国は厳重な報道管制を敷き、日本側に戦果がわからないようにしています。もちろんこういった統制は戦意維持の意図もあります。
 昭和17年4月に初めて東京が空襲(ドーリットル空襲)されたとき大本営「敵機9機を撃墜。損害軽微」と発表しましたが、皇軍は空気(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜した』と揶揄するマスコミもありました。昭和19年2月に毎日新聞「勝利か滅亡か 戦局はここまできた」「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」と新名丈夫記者が書いたことがあります。東條首相は激怒しますが、海軍は絶賛します。当時の雰囲気が見えてきそうな話です。ただ、東條首相は逆鱗にふれた記者その他の人を兵隊として召集させ激戦地に送るなど過酷な仕打ちをしています。こういうのは評判が悪かったようです。新名記者の場合は、陸軍で召集されましたが、海軍の大西瀧次郎中将が中に入って海軍報道部員として引き抜き、戦後フィリピンから無事帰還しています。

 戦前は治安維持法で言論や思想弾圧があり、おそろしい憲兵特高警察がいた、と多くの人はおどろおどろしいイメージを刷り込まれているでしょう。この法律の趣旨はあくまで共産主義イデオロギーが日本国内に入ってくることを防ぐのが目的でした。当初の最高刑は10年です。その後、最高刑は死刑となりましたが、死刑になった人は一人も居ません。また、ソ連中共を見てわかるとおり、共産主義というのは常に暴力とセットになっており当時としては取り締まる意義も大きかったわけです。オウム真理教が恐ろしいテロ集団に成長するまで放置されていたことを考えると理解できると思います。もちろん治安維持法は冤罪で逮捕された人も多かったのも事実で拷問もありました。法の運用に問題はあったでしょう。何事にも両面あります。

 戦時中も帝国議会は開催されていました。もっともこれは陸軍機密費が動いて陸軍に都合のよい議員(陸軍代議士と呼ばれた)が多く誕生したわけですが、じゃあ、今の政治は?というと背後になにやら怪しげな支援団体がいてカネが動いて選挙に流れていっています。政党助成金もおかしな使われ方がされている話を聞きます。あんまり変わりませんね。戦前が特別というわけではないでしょう。



参考文献
 「天皇論」小林よしのり
 「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著
 「東条英機」太田尚樹著
 「GHQ焚書図書開封西尾幹二
 「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一
参考サイト 
 WikiPedia風船爆弾」「ドーリットル空襲」

添付画像
 昭和15年のあかちゃんの店 http://syasinsyuu.cool.ne.jp/mise/22.jpg (ごちゃまぜ写真館より http://kyoto.cool.ne.jp/syasinsyuu/index.htm )
 
広島ブログ クリックで応援お願いします。