義和団事件から日英同盟へ

坂の上の雲ではあまりかかれていないが柴五郎の活躍は大きかった。


 日英同盟は、日本とイギリスとの間の軍事同盟です。明治35年(1902年)1月30日調印発効、大正12年(1923年)8月17日失効しています。明治のごろの世界情勢は北からロシアが南下し、南からイギリスが北上し、日本、朝鮮半島満州で両国の利害が衝突しました。そこでイギリスは日本と同盟を結んで、ロシアに対抗しようとしました。

 しかし、白人は有色人種を差別していました。イギリスのそうした認識を変えたのが1900年の義和団事件です。義和団は呪術を行う拳法の一派で、「扶清滅洋」を掲げて排外運動を起こしていました。義和団は各内外のキリスト教徒を殺傷し、教会や駅、鉄道などを襲い、破壊活動を激化させていました。各国政府は清国政府に暴徒を鎮圧するよう要求しましたが、清国政府は放置しました。そして明治33年(1900年)6月に義和団は各国公使館を攻撃し、清国軍も義和団に呼応して列国に宣戦布告し、公使館を攻撃したのです。このとき、公使館防衛に獅子奮迅の活躍したのが柴五郎中佐です。柴五郎中佐はイギリス公使館が襲撃されたときに救援に駆けつけ清兵を撃退して大いに感謝されたといいます。

 篭城当時を取材したピータ・フレミング
「日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験もゆたかであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。
 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的になった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである」

 ロンドンタイムス社説
「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。列国が外交団の虐殺とか国旗侮辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のおかげである。日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」
 
 義和団は各国の出兵、特に日本軍の出兵により鎮圧されました。その各国の中でロシアは満州を占領していました。義和団鎮圧後、北京場内は各国が区域を設けて、治安維持にあたりました。その中でロシアは清朝の財物を強奪しました。ロシアの火事場泥棒の癖は伝統的なものですね。イギリス軍兵士の中にも掠奪行為を行い、手に入れた骨董品類や宝石を公使館の中でオークションを行ったといいます。

「イギリスやアメリカの管轄区域はフランスやロシアの区域よりは良かった。しかし、日本軍のそれと比べると遠く及ばなかった」(ジョージ・リンチ『文明の戦争』)

日本軍軍医の下島氏
「西洋の兵隊の分捕りというものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分たちは分捕り専門にかかった、といっても言いすぎではなかった程でした」

 日本軍は規律正しく治安が維持されていたため、ロシアの区域から日本の区域に避難する人が洪水のように流れていったといいます。

 この日本の信頼にたる行動は北京に駐在していたイギリスのマクドナルド公使の目にとまり、帰国後にロンドン在住の林公使に「日英同盟」の提案がもたらせます。以降、具体的な交渉がはじます。司馬遼太郎著「坂の上の雲」ではこの林公使の活躍が大きく描かれており、秋山真之が林の情勢判断力と適切な処置に感心し、「あなたは軍人になっても最良の将軍か提督になれるかもしれませんよ」と言ったことが書かれています。

 そして明治35年(1902年)1月31日、歴史的といえる日英同盟が締結されました。



参考文献
 「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一
 歴史街道2010.5
   「三国干渉と列強の清国分割・・・北清事変とは何であったのか」岡田幹彦
   「武人の矜持が結んだ日英同盟、そして二度目の『亡国』に際し・・・」松田十刻
 「大東亜戦争への道」中村粲
 「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二
 「坂の上の雲司馬遼太郎

添付画像
 義和団の兵士(PD)


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