沖縄の維新後の大和ぬ世

再び民族が一つになった。


「唐ぬ世(ゆー)から大和ぬ世、 大和ぬ世からアメリカ世、 アメリカ世からまた大和ぬ世、 ひるまさ変わゆる くぬ沖縄」

 これはシンガーソングライターの佐渡山豊さんが作詞作曲した学曲「ドゥチュイムニイ」の一節です。支配者がどんどん変わるが自分たち市民は何も変わらない沖縄の歴史を語っています。

 明治4年(1871年)、沖縄に廃藩置県、四民平等の太政官令がもたらされました。沖縄は長く清と薩摩の二重支配が続いていましたが、これから「大和ぬ世」になるわけです。ところが、支那党が妨害してきました。支那党というのは「明」が滅んで「清」になったとき、満州族の支配から逃れて沖縄にやってきた漢人の子孫です。沖縄人は国際情勢に疎かったので、清国が世界最強の国だと思っており、支那党勢力が「黄色い軍艦がまもなく沖縄に救援に来る」と民衆にうそぶくのを信じていました。そして明治7年(1874年)、沖縄王府は独断で清に朝貢使を派遣したのです。

 明治8年(1875年)、明治政府は沖縄の三司官を東京へ召請し、廃藩置県や明治元号の使用、日本の法令適用、行政機構の改革などを通達しました。さらに大久保内務卿は国際情勢を説明し、近代化への意識改革を説得し、兵営の設置を通達しました。しかし、王府は兵営設置を拒否します。大久保内務卿の代理、松田道之が沖縄に赴いて藩王への直接説得を試みましたが、藩王は病気を理由に会いませんでした。沖縄では支那党が清への朝貢継続、支那式の元号使用継続を陳情していたのです。

 こうしたやりとりが何度も続き遂に明治12年(1879年)、廃藩置県強制執行となりました。随行官吏32名、警官160名、陸軍歩兵400名余りが沖縄に渡りました。抵抗するかにみえた王府官吏は誰一人として反抗するものはなく、あっさり首里城を明け渡しました。

 この後も支那党は清に救援を依頼しています。清国の総理・李鴻章(りこうしょう)は琉球三分案を主張してきました。この中には宮古八重山群島の割譲が含まれています。そこで明治政府は「分島改約案」を提案し、宮古八重山群島を割譲する代わりに日本に対し、列強並の最恵国待遇を与えるよう主張し対立しました。今から考えれば宮古八重山群島を割譲など身を切るような話ですが、当時は沖縄本島内に支那党が勢力を持っており、軍事的なパワーバランスにおいても日本はまだ清国に対抗できなかったころです。

 こうした外交政策だけでなく、内政でも旧士族、特に支那党はことごとく沖縄開化政策を妨害してきました。沖縄は識字率が10%以下と低く、近代化に向けて小中学校の開設、師範学校の設置し、黒糖製造業のファンドを創設しました。士族には金録を設け、無録の士族には授産金を下賜しました。しかし士族は明治政府を軽んじる発言を繰り返しました。明治政府は農民に教育を普及させようとしますが、琉球王国時代に学問は士族のたしなみであるという固定概念によって効果があがりませんでした。

 沖縄では白党(日本党)、黒党(独立党)、支那党の三派にわかれ、地域共同体としては統制がとれなくなっていましたが、上杉茂憲、奈良原茂といった県知事が懸命に近代化に努めました。

 日清戦争が勃発すると三派の争いが激しくなります。戦争の勝報が出ても黒党は「真っ赤な嘘」と言いふらしました。戦争に日本が勝利し、台湾まで日本領土になると、ご用船等が那覇を経由として行くようになったので、黒党は日本の勝利を信じないわけにはいかなくなりました。また、下関講和条約後に尚家の命をうけて清国に脱出していた知花朝章が帰国し、清国の内情を詳しく説明しました。これにより旧支配階級派の気持ちがにわかに一変し、白党の数が急増していきました。児童の就学率は増加し、和服、洋服が普及していきました。男性の「カタカシラ」というマゲや女性の手の甲に入れる「ハジチ」という入れ墨は姿を消していきました。そして沖縄はようやく名実とも"日本"として近代化路線に乗ることができるようになったのです。それは2000年もの昔、アマミキヨの南下以来別れた民族が再び一つになったときでもありました。



参考文献
 角川学芸出版「報道されない沖縄」宮本雅史(著)
 平凡社ライブラリー「沖縄歴史物語」伊波普猷(著)
 WAC「誰も語れなかった沖縄の真実」恵隆之介(著)
 小学館「沖縄論」小林よしのり(著)

添付画像
 NHK大河ドラマの撮影に使われた読谷村のオープンセット(PD)

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<おもろさうし 十の巻>

昔初まりや

日子大ぬしや

美らや照り給れ

せのみ(昔)初まりに

日神いちろくが

日神はちろくが

胡散しちへ見給れば

坐よくしちへ見おれば

あまみきよは寄せ給ちへ

しねりきよは寄せわちへ

島造れでて宣ちへ

国造れでてわちへ

ここらきの島々

ここらきの国々

島造ら迄も

日神心切れて

せのみ(日神)うらきれて

「あまみや首陀生すな

しねりやすぢや生すな

しやりはすぢや生し給れ」

解説:はじめに日の神あり、美しく照り輝いていた。日の神が海原を見渡すと島のようなものがあった。アマミキヨ(異名・シネリキヨ)を召して島を造れといい、アマミキヨは降りて、多くの島を造りはじめた。日の神が島造りが遅いとせっついてアマミヤ(南島の発祥地 異名シネリヤ)の人を生まず、下界の人を生めと言った。



古事記

ここに天神、

もろもろの命もちて、

いざなぎのみこと、いざなみのみこと、

二柱の神に、

「このただよへる国を修めつくりかためなせ」とのりて、

あめのぬぼこをたまひて、

言よさしたまひき。

かれ、二柱の神、天の浮橋しにたたして、

そのぬぼこをさしおろしてかきたまへば、

塩こをろこをろにかきなして引き上げたまふとき、

そのほこのさきよりしただりおつる塩、

かさなりつもりて島となりき。

これおのごろじまなり。