通化大虐殺

日本人が大虐殺された歴史は抹殺されました。


 昭和21年(1946年)2月3日に支那共産党満州国通化通化市は支那共産党軍に占領されていましたが、中華民国政府の要請に呼応した日本人が蜂起しました。しかし、計画は事前に露見していました。ろくな武器を持っていなかった蜂起軍は変電所、支那共産党司令部、公安局を襲撃しましたが、共産党軍の重火器によりあえなく敗退しました。このとき、1月10日に日本人の有力者が逮捕され投獄されていたのを奪還にも行っていますが、軽機関銃で撃ち殺され全員戦死したどころか、獄舎にも向けて銃撃したので、獄舎にいた140名も全員殺害されました。
 
 その後、共産党軍は事件に関係したものだけでなく、関係しないものまで全員逮捕したので3000人にもなったといいます。零下20度近い獄舎、憲兵隊跡、公安局、県大隊などへ死の行進をさせました。獄舎の8畳ぐらいのところに100人ぐらい詰め込み、5日間立ち尽くしになり、水も飲めません。気が狂って叫ぶ人が出ると「うるさい」と窓から弾が飛びます。
 5日目から尋問が始まりますが、尋問の前に殴りつけて白状を迫り、倒れると外に放り出されて凍死するものも出ました。死刑になったもの、凍死したもの、拷問によって死んだものはトラックに積んで凍結している揮川に投げ捨てられました。逮捕された留守宅は女性や子供ばかりで、朝鮮人部隊が家宅捜索として掠奪し、女性を陵辱しました。自殺した女性もいます。
 
 満州製鉄林業課のイイヅカ氏
「となりの教室から、調べられている人の悲鳴が聞こえてくる。板の間に正座させられて、事件のことを知っているだろうと聞かれる。知らないと答えると、木刀で容赦なく打ち据えられる。拷問に耐えかねて、二階の便所から逃げ出した人がいた。ところが、一緒に便所に行っていた人まで、お前が逃がしたのだろうといわれて僕らの見ている前で撃ち殺された」

 通化にいた上坪隆(RKB毎日放送
「男は無差別に次から次へ銃殺される。銃殺された日本人の衣服を剥ぎ取るために待ち構えていた中国人が、ドラを鳴らしながらワーッと群がってくる。丸裸にされた遺体は凍てついた土手を滑り台のように滑って凍った川につきおとされる。川床にはかちかちになった死体がごろごろ転がっていた」

 次のような証言もあります。
中国共産党の本拠地である延安から派遣された若い裁判官の前で、台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から『俺達を酷使した、俺達を殴った』という声が上がる。裁判長が『どうする』と問うと、『打死!打死!(殺せ殺せ)』と民衆が叫び、これで裁判は終わり。その日本人は背中に『南無阿弥陀仏』と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺された」

 この事件の戦死者は厚生省援護局の資料では約300名で事件後の死者は1200名となっています。大虐殺を行ったのは朝鮮人部隊がほとんどで、共産党軍主力は通化を離れて作戦展開しており、司令部はこの虐殺を知って銃殺中止命令を出したようです。
 通化の日本人はこの年の夏の終わりにようやく引き揚げることができました。この年(昭和21年)の暮れに中華民国政府軍が通化を奪還すると事件犠牲者の慰霊祭が行われました。昭和22年(1947年)には支那共産党軍が通化を再び占領しました。

 通化事件の遺族は昭和27年(1952年)に遺族会を設立し、昭和30年(1955年)以降、毎年2月3日に靖国神社で慰霊祭を行っています。



参考文献
 「通化事件松原一枝
 「愛新覚羅浩の生涯」渡辺みどり
 「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明著
WikiPedia通化事件

添付画像
 鞍山の昭和製鋼所(PD) 通化からは東に約250キロほどのところ。通化と鞍山の間には満州族自治区がいくつかある。


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通化事件に巻き込まれた流転の王妃

日本人が大虐殺された通化事件に巻き込まれた浩妃。


 満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)に嫁いだ侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の第一子、嵯峨浩(さが ひろ)は昭和20年(1945年)日本敗戦によって満州の地に取り残されました。そして、通化事件(つうかじけん)に巻き込まれます。
 通化事件とは昭和21年(1946年)2月3日に支那共産党に占領されたかつての満州国通化通化市で中華民国政府(国民党)の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた支那共産党軍と朝鮮人義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人に対する大虐殺事件です。

 通化事件が起こったとき浩妃は支那共産党の公安局の2階に軟禁されていました。この公安局はほとんど満州警察学校の出身の人たちで日本語が達者で親切だったといいます。「万一、国民軍が中共軍と戦うことになれば連れて一緒に逃げますから安心してください。私たちは心から中共軍にしたがっているのじゃありません。ただ食わんがため仕方がないのです」といわれ浩妃は「食わんがため、それも一つの生き方」と思ったといいます。
 国民党と旧日本軍人の策略は事前に察知されていました。公安局長が浩妃らの所に現れ、浩の娘、「こ生」(こせい 当時5歳)を抱き上げると、「面白いものが見られるよ、映画にいきましょう」と誘います。浩妃は「外は寒いし、着るものもありませんし」と断りました。局長は浩妃母娘を連れ出して難を逃れさせようとしたと思われます。

 2月3日の真夜中、突然バンという銃声が鳴り響き、浩妃は息を潜めているとダダダと凄まじい足音がして一人の男が飛び込んできました。男は「一番乗りの中山、お助けに上がりました」と叫びます。さらにやってきた軍人が「今夜憲兵の工藤が救出に参るはずです。皇后様(一緒にいた皇帝溥儀の皇后・婉容妃のこと)とご一緒にお待ちください」といって窓側にいき、八路軍共産党軍)と銃撃戦を始めました。しかし、計画は事前に察知されていたので、八路軍は一旦、旧日本軍人らを公安局の中に入れて包囲する作戦でした。そして機関銃で銃撃され、砲撃を受けます、浩妃たちはじっとして身を伏せていましたが、皇帝の老乳母の王焦に砲弾の破片が命中し、右の手首が吹き飛ばされます。乳母は「痛い痛い」と泣きながら血だらけの手で顔を触り、顔が血だらけになりました。この乳母の吹き飛ばされた手首は浩妃の娘・「こ生」のところに飛んできていました。「こ生」は「忘れようとしても、なお血まみれの手首だけは記憶に残っています」と回想しています。

 通化事件の蜂起は失敗に終わり、浩妃らは長春(新京)へ送られることになります。ここには浩妃たちの自宅がありましたが、浩妃らは料理屋の大部屋に押し込められました。娘「こ生」は「どうしておうちに帰らないの。お父様が待ってらっしゃるのに」としきりに聞いてきます。浩妃は「もう私たちのおうちじゃなくなったのよ」と何度も言い聞かせました。皇帝溥儀の皇后・婉容妃は事件の恐怖で精神錯乱状態となりました。浩妃はその後、吉林、延吉、佳木斯へとつぎつぎに身柄を移され、流転の日々を送りました。



参考文献
 「愛新覚羅浩の生涯」渡辺みどり
 「通化事件松原一枝
参考サイト
 WikiPedia「嵯峨浩」「通化事件
添付画像
 愛新覚羅溥傑・浩夫妻 毎日新聞社「一億人の昭和史 1930年」より。(PD)



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愛新覚羅浩 Part2.avi
http://www.youtube.com/watch?v=m54ybilLKjQ

Part1を見ても通化事件のことはタブーになっていることがわかる。支那人朝鮮人が加害者で日本人が被害者の歴史は通州事件などをはじめ、戦後、マスコミは徹底的に隠している。

通化事件と藤田大佐

通化事件に藤田大佐は関与していなかった。


 通化事件(つうかじけん)とは昭和21年(1946年)2月3日に支那共産党に占領されたかつての満州国通化通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた支那共産党軍と朝鮮人義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人及び支那人に対する虐殺事件です。

 作家の松原一枝さんが終戦後まもなく、横浜の野毛山あたりのマーケットである女性より「乾燥芋」買ったとき、その女性が通化からの引き揚げ者と知り話をしたとき、女性は事件についてこう述べました。

終戦後になって、あの大佐が、つまらないことを考え出してから、何も知らない日本人も沢山死んだ。軍人は弾に当たって死ぬのが仕事ですが、私の亭主はあんな馬鹿なことで死んだ」

 つまらないこと、馬鹿なことと言っているのは中華民国政府に呼応して蜂起したことを言っており、そのリーダーが日本陸軍125師団参謀長藤田大佐であり、そのようなことをしたから自分の亭主は死んだのだと言っているのです。

 佐藤和明著「少年は見た 通化事件の真実」より
「こんな無謀な暴動さえ起こさなければ、無実の人たちが殺されることはなかった。関東軍の参謀長(第125師団)という、いわば作戦を立てる責任者までした人が、いったい何を考えていたのだろう。こりかたまった考え方を変えることは難しいとしても、なぜ冷静に兵力の分析ができなかったのだろう」

 実は藤田大佐は事件には関与していません。藤田大佐は支那共産党軍の司令部が置かれていた竜王ホテルに軟禁されていました。蜂起を企てていた中華民国軍と呼応した日本人は藤田大佐の名声と頭脳、誰もが心服する人間性を把握しており、大佐を旗印にしないと蜂起に同調する日本人が出てこないと考えていたので、藤田大佐奪還を計画していましたが、それを知った藤田大佐は奪還予定日よりも前に単独で竜王ホテルを脱出しました。おそらく、藤田大佐は日本側には武器がなく、支那共産党軍に対して勝ち目はないという判断で蜂起には加わらないという意思を示したのだと思います。
 藤田大佐は栗林家にかくまわれますが、ここは蜂起軍の秘密アジトにもなっていました。それでも藤田大佐は蜂起に加担しませんでした。もはや蜂起軍にとっては「藤田大佐」の名さえ使えればよく、姿無き藤田が日本側リーダーとして水面下を動いていったのです。

 藤田大佐は日本軍の特殊訓練を受けた柴田朝江という女性と栗林家に潜伏しており、この柴田朝江の証言によってこのときの状況は明らかになっています。

藤田大佐「その時(蜂起が起こったとき)こそ、本当の日本人救済ができるのです。私は日本人の無事引き揚げが完了したら、自分だけ残ります」「蒙古に行くつもりです。蒙古にも残留日本人がいます。その人たちのことも考えなければ − 」

 しかし、藤田大佐の読みは甘く、知らない間に中華民国軍より最高軍事顧問に任命されており、事件前に蜂起に向けて姿無き藤田大佐の密書が日本人の間に出回りました。しかしこの計画は支那共産党軍のスパイによって露見し、蜂起軍は重火器を備えた支那共産党軍の待ち伏せに会い、あえなく敗退しました。そして首謀者は藤田大佐とされたのです。藤田大佐はその後、逮捕され、見せしめのため百貨店で見世物にされ、その後、肺炎で亡くなりました。



参考文献
 「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明著
 「通化事件松原一枝
WikiPedia通化事件

添付画像
 「通化事件松原一枝著の表紙。ひげの人が藤田大佐。


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愛新覚羅溥傑と嵯峨浩

結婚とはなんでしょうか。お見合い結婚より恋愛結婚のほうが幸せですか?政略結婚は不幸なのでしょうか。


 満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)と侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の第一子、嵯峨浩(さが ひろ)昭和12年(1937年)4月3日には東京の軍人会館(現九段会館)で結婚式を挙げました。いわゆる政略結婚というものです。結婚の話がきたとき浩は以下のように回想しています。

「今の方はね、考えも及ばないことと思いますけど、その時代は、男は皆第一線に出ているのだから、お国のために役に立つのであれば、と両親は観念いたしまして、逆らうことはできません。イエスとかノーとか、そんな事どころじゃありません。お国の役に立つならば行かなくてはと・・・こういう運命に入ってきたんだから、と私も覚悟しておりました」

 政略結婚といえば聞こえは悪いですが、当時は厳しい国際環境であり、日本人は「公」の精神を持っていました。今のような個人主義と全く違うわけで、現代感覚で当時を見てしまうと本質を見誤るでしょう。

溥傑が兄に書いた手紙より
「あとは仕組まれた政略結婚を互いの愛情と理解と同情で真に一対一の人間としての結婚にすることです。彼女が絵を描くことも私は気に入りました」

 お二人には「覚悟」というものが感じられます。運命を受け入れる覚悟さえ決めればあとは最大限の幸せへ向けて二人で努力する。一旦覚悟を決めているから困難も乗り越えられる、という感じですね。現代では「愛があるから」「愛さえあれば」とよく言いますが、覚悟はないように思います。

 溥傑殿下は昭和4年(1929年)に日本の学習院に留学し、昭和8年(1933年)3月、同高等科卒業。同年9月、陸軍士官学校入学、昭和10年(1935年)7月、同校を卒業しています。性格は優しく、朗らかで情に深く、楽天的というところでしょうか。日本敗戦によって満州を追われ、日本に向かった溥傑殿下は浩妃に向かって「今度こそ親子水入らずで暮らせるね。明日はもう日本だから、洗面用具も要らないよ」と言ったといいます。このあたりが楽天的な性格を物語っています。

 日本敗戦後、溥傑殿下は兄皇帝溥儀とともにソ連軍につかまり抑留され、中共に戦犯として扱われました。浩妃は皇帝溥儀の正室(皇后)婉容妃と支那大陸流転の日々を送ることになります。浩妃は何とか日本に戻ることができましたが、その後、娘の慧生が交際していた同級生大久保武道とピストル自殺するという悲劇に見舞われます。(天城山心中) 溥傑殿下と浩妃が再開を果たしたのは16年の後、昭和36年(1961年)のことでした。広州の駅で再開した二人は言葉が出ず、浩妃は黙って頭を下げるばかりで、溥傑殿下もうなずくばかりであったといいます。そして二人は再び夫婦として暮らし、添い遂げることになります。政略結婚、そして16年の離別があったにも関わらずです。浩妃の姪は「伯父と伯母の生活を見ていると、とても政略結婚で結ばれたとは思えないほど仲が良くいたわりあっている」と述べています。

 昭和62年(1987年)6月20日、浩妃は溥傑殿下に看取られながら波乱の生涯を閉じました。溥傑殿下はそれから7年後の平成5年(1994年)に北京で逝去しました。浩妃と溥傑殿下の遺骨は溥傑殿下の生前からの希望により、娘、慧生の遺骨とともに日中双方によって分骨され、山口県下関市中山神社境内にある摂社愛新覚羅社に納められ、中共側の遺骨は三人共に妙峰山上空より散骨されました。



参考文献
 「愛新覚羅浩の生涯」渡辺みどり
 新人物往来社歴史読本」『愛新覚羅浩』渡辺みどり
参考サイト
 東京紅團「愛新覚羅浩さんの足跡」
   http://www.tokyo-kurenaidan.com/aishinkakura.htm
 WikiPedia愛新覚羅溥傑」「嵯峨浩」

添付画像
 愛新覚羅溥傑と嵯峨浩の婚儀。1938年(昭和13年)4月3日、軍人会館にて。(PD)

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愛新覚羅浩 Part1.avi
http://www.youtube.com/watch?v=AC6RJwTckHY


皇帝古き故郷へ帰る

満州王朝の復活。


 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発。奉天特務機関長の土肥原賢二は天津にいた清朝最後の皇帝、溥儀のもとを訪れ「今こそ清朝を再興すべきときです。是非、満州へおいでください。日本は陛下を全面的に支援いたします」と語りかけました。その後も関東軍からの密使、甘粕正彦が溥儀のもとを訪れ、満州建国のプランを伝えます。

 満州王朝の復興は混乱する大陸で、多くの人が望まれたものでした。また、蒙古(モンゴル)も満州王朝であれば従う意思がありました。
 昭和8年(1933年)ワトソン・デイビス論文 「紫禁城の黄昏」より()はジョンストン博士の注釈
「名目上、内蒙古は依然としてシナに従属している(シナに従属というが、これもまた紛らわしい言い回しで、デイビス氏自身もこのことは認めるだろう)。しかし、いまさら付け加える必要もないけれども、偉大な共和国は騒然とした無政府状態となり、内蒙古では何の実質的な権力も行使できないのである」

「日本は、いつでも自治を約束することで蒙古人すべてを日本の見方につけることができるし、その保護を誓約することで、統一した蒙古国家を樹立することも十分できそうである。このことを重ねて確実にするには、日本が満州国の執政となる満州人に皇帝の称号を再び与えさえすればよいのである。過去を崇める蒙古人なら、誰でも、皇帝溥儀を歓呼して迎えるだろう」

 1931年11月、溥儀は満州へ向かいます。このときのことを溥儀の家庭教師をしていたジョンストン博士は以下のように記しています。
「シナ人は日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったかのように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じるものも大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である・・・皇帝が誘拐されて満州に連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話である」

 皇帝は自分の意思で満州へ出発しました。満州建国を阻止したい支那国民党は溥儀の動向を付けねらっています。甘粕正彦が溥儀にぴったり付き添いガードしました。途中の船旅の中で銃撃されたこともありました。

 ジョンストン博士
「皇帝が北へ向かうと、彼の乗った特別列車はあちこちの地点で停車し、地方官吏やその他の役人たちが主君のところへ来て敬意を表すのを許したのである。彼らは御前に進み出て跪き、話しかけるときは皇帝陛下と呼んだ。列車が奉天郊外で初期の満州皇帝の御陵を通り過ぎようとしたとき、ある感動的な出来事が起こった。皇帝が乗車したまま先祖の御霊に敬意を表すことができるように、列車がしばしば停車したのである。
 龍は古き故郷に帰ってきたのである」

 昭和7年(1932年)2月16日、溥儀は満州国執政に就任。国体は民本主義。首都を新京(長春)と定め、王道楽土の建設と五族協和を要領としました。昭和9年(1934年)3月に満州国皇帝に就任しました。年号を康徳と改め、溥儀の紋章は蘭の花となりました。



参考文献
 「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三緒
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子

添付画像
 執政就任式典(PD)


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満州国皇帝・溥儀即位式
http://www.youtube.com/watch?v=vBZdcwmxL0k


ジャイアンを懲らしめろ 〜 満州事変

ならずものを退治しろ!


 昭和6年(1931年)の満州事変は関東軍が侵略目的で突然起こしたものではありません。張軍閥の執拗な嫌がらせから発生したものです。条約違反、日系工場の強制閉鎖、設備破壊、鉱山採掘の禁止、日本人に対する土地貸与の禁止、森林採筏の禁止、鉄道運行妨害、強盗、鉄道施設の略奪、電線の略奪・・・軍閥は日本に対してだけではなくソ連に対しても北満州の鉄道を強制回収したため紛争が起こっています。
 次第に張軍閥の要求は次第にエスカレートし、関東軍の駐兵権を無効とする撤兵要求、満鉄の接取も要求してきます。現地在留日本人は危機感を募っていきます。特に迫害されたのは朝鮮人「鮮人駆逐令」を出して追放にかかります。そして万宝山事件で抗争が起こります。朝鮮人は激昂します。同じ時期の1931年6月、中村大尉殺害事件が発生します。中村大尉は対ソ戦を想定した地図を作成するために偵察を行っていましたが、奉天軍につかまり、凄惨なリンチの末に惨殺されました。これも日本国民を激昂させました。 
 政府はあてにならない、関東軍がやるしかない、という雰囲気が広がりますが、しかし関東軍は1万強しかおらず、しかも鉄道沿線に配置されているので分散しています。対する張学良軍は奉天に5万、満州各地合わせると26万5000人でした。それに張軍は歳入の80%を軍事費にあて、優秀な装備を持っていました。これではのび太ジャイアンです。ジャイアンが嫌がらせや暴力をふるってくるのを待って、反撃したのでは一方的にやられてしまいます。そこでドラえもんの秘密兵器が登場します。東京から24センチ重砲を密かに奉天へ運ばせたのです。

 それでも兵力の差は歴然としており、頭のいい”静ちゃん”に作戦を練ってもらいます。張軍兵士は夜間になると武器を持って営外にでて強盗、強姦など繰り返して市民から批判されていたため、張学良は兵器の悪用を警戒し、昼間の演習がすむと夜間は兵士たちから銃器をとりあげて、武器庫におさめてしまうことがありました。そこで関東軍は夜間の攻撃を計画し、さらに、事前に夜間演習をを繰り返しておいて、油断させます。そして9月18日深夜、柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発したのを合図に張学良と配下6700が駐屯する北大営の門に向けてドラえもんの秘密兵器をぶっ放します。張軍は突然の攻撃に武器を倉庫にしまっていたため大掛かりな反撃ができずほうほうの態で逃げていきました。その後の作戦は電光石火のように進み、翌年はじめには満州全土を制圧しました。”静ちゃん”の作戦勝ちです。

 こうして、奉天では商人や市民の代表たちが自治委員会をつくり、支那とは絶縁して民意にもとづく新政権の樹立を目指しました。奉天に呼応する形で遼寧吉林の各省も独立宣言を行いましたが、昭和7年(1932年)3月、奉天からの代表700人のほか、満蒙青年同盟、吉林省朝鮮人、東省特別朝鮮人、モンゴル人、各種団体などが参加して「満州建国宣言」を行い、支那からの離脱を宣言しました。

 さて、ジャイアンはどうしたのか。ある消息筋から(米国上海副領事 ラルフ・タウンゼント)
「張学良の話である。『満州の王』気取りで、支那に『満州には手を出すな』と警告まで出すほどになった。こうまでされては支那政府も黙ってはいないと思うのだが、何もできない。ただ「反逆者、無法者」としただけである。だから張は我が物顔に満州で暴れまわっていた。ところが日本軍がわずか1万400の兵で、しかもたった数日で20万の張軍を撃退した。負けた張学良はどうなったか。広大な満州から搾り取ったから金に不自由はない。選りすぐりの美女20〜30人を秘書として従わせ、イタリア旅行へと洒落込んだのである」・・・ こんなもんです。



参考文献
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三緒
 「騙しの交渉術」杉山徹宗著
 「暗黒大陸中国の真実」ラルフ・タウンゼント著
関連記事
 万宝山事件と中村大尉殺害事件 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21555060.html

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 熱河作戦(PD)
 
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満州国樹立一周年記念
http://www.youtube.com/watch?v=WymWH_JS3KM


ラストエンペラーの変貌

漢人の所業に激怒したラストエンペラー


 ラストエンペラーの呼称でよく知られる清朝第12代皇帝、愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)は1911年の辛亥革命を経た後も、北京の紫禁城に住むことが許されていました。ところが1924年11月にクーデターが起こり、皇帝は紫禁城から追い出されてしまいました。そして北京郊外の父親の邸宅(北府)に軟禁されます。溥儀の家庭教師をしていたジョンストン博士他皇帝に忠誠を尽くす側近らは溥儀を脱出させ、ドイツ病院に入り、ジョンストン博士は日本公使館に保護を求めます。ジョンストン博士は英国人ですが、英国は内政干渉と取られるような行動には反対するとわかっていたので、日本に援助を求めたのです。

 日本公使館の芳沢公使はジョンストン博士の申し入れに躊躇しましたが、決断し、公使館の最も良い部屋を提供します。このとき皇帝は北府から脱出に成功していましたが、皇后は脱出できておらず、公使は断固とした態度で交渉して皇后を奪還しました。

 皇帝溥儀は天津の日本租界へ移り、約7年間を過ごします。この頃の支那の情勢は果てしない混乱の中で皇帝の復辟(ふくへき)を望む声が強くでていました。

 支那の有力政治家の唐紹儀(とう しょうぎ)の所見。
満州とシナの統一を結婚にたとえるならば、満州族の征服者たちは、持参品として満州を持ってきたようなものである。したがって、シナの国民は満州の帝室を破棄したけれども、満州は今でも満州族が正当に世襲すべき財産だと思われる。前皇帝の宣統帝(溥儀のこと)は、同地方への統治権を回復することを許されるべきだ」

 これに対して、反満州派は反帝室運動を盛んに行い、皇帝本人を含めて君主制主義者を徹底的に処罰し、死刑にすることを目論んでいました。

 皇帝溥儀本人はというと、特に満州王朝復活に情熱をかけていたわけではなく、君主制主義者と接触を持っていた形跡はありませんし、敵対するものに対しても一言も怒りや不平を漏らしたことがなかったといいます。しかし、こうした皇帝を変貌させる大事件が勃発します。

 1928年7月3日から11日にかけて帝室の御陵が破壊され冒涜されたのです。蒋介石配下の孫殿英の仕業です。副葬の金銀財宝は奪いつくされ、西太后の遺体は屍姦され、彼女の口の中に入れてあった貴重な宝石まで奪われました。蒋介石は孫殿英を不問に付し、賄賂を要求しました。

 この事件により、皇帝は変貌します。このときの皇帝をジョンストン博士は以下のように記しています。
「私が次に皇帝を訪ねたときは、目立った変貌ぶりを見せていた。あまりにも変化が著しいので、皇帝は侮辱された先祖の霊魂と霊的な交わりを持ったのではないか、そして、それまで自国と祖先を辱めたシナに向いていた顔を、三百年前に帝国の強固な礎を築いた国土に向け、満州を注視せよと、先祖の霊魂にせきたてられているのではないか、と思ったほどだ」

 溥儀はこれで清朝の再建を心に誓ったのでしょう。君主制復活を望む世論を追い風にいつかチャンスがやってくると。そして満州事変の少し前から日本軍奉天特務機関長の土肥原賢二が溥儀のもとをご機嫌伺いに訪れるようになり、日本に留学している弟の溥傑(ふけつ)が帰国すると「日本は満州に新国家を建設しようとしているようだ」と耳打ちしてきます。そして遂に満州事変が勃発。土肥原賢二清朝再興を全面支援する」という言葉に溥儀は感動で心が震えたに違いありません。



参考文献
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著
 週刊新潮2009.08.13.20「変見自在」『支那に蓋を』高山正之
 「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三著

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 1902年ごろの天津の絵葉書(PD)
 
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