ラーベは南京大虐殺を見たのか

国際委員会の委員長であるラーベは南京大虐殺を見ていなかった。




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で13日の南京城陥落後、六週間にわたって30万人が殺害されるという南京大虐殺があったといわれてきました。このとき難民は外国人メンバーが組織する国際委員会の管理下で安全区と呼ばれる地帯に避難していました。日本軍はここは攻撃しませんでした。

 国際委員会の委員長はドイツ人のラーベでジーメンス社の社員でした。南京市とは電気関係の取引をしていたので、彼は支那寄りの人間で、反日的でした。ですので、支那人の口からの出任せのウソである日本兵の殺人、略奪、強姦、放火を簡単に信じたか、ウソとわかっていてネタにして日本大使館へ抗議していました。ドイツ大使館員のシャルフェンベルク事務長に「第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか」と肩入れしすぎていることについて警告を受けています。

 このラーベが書いた日記は「南京の真実」というタイトルで平成9年(1997年)に出版されました。当時、ノンフィクション作家の立花隆氏は「文句なしの一級資料である・・・日本はいまだに『南京大虐殺まぼろし』説をとなえる人々がいるらしいが、そういう人々にぜひとも読ませたい一冊である」と絶賛しました。しかし、これは読んでみると爆笑ものなのです。なんとラーベ自身が目撃した殺人はゼロ件なのです。南京で30万もの大虐殺が繰り広げられたのに、南京城区の中を自由に歩き回っていたラーベがただの一件も殺人事件を見ていないのです。わずかに同じ国際委員会のメンバーであるクレーガー氏とハッツ氏の目撃談が信憑性の高い唯一のものです。

 ラーベ日記1月9日
「11時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった『小規模の』処刑について報告した。日本人将校一人に兵士が二人、山西路にある池の中に中国人(民間人)を追いこんだ。その男が腰まで水につかったとき、兵士のひとりが近くにあった砂嚢のかげにごろりと寝転び、男が水中に沈むまで発泡し続けたというのだ」

この事項は国際委員会の記録にもあります。そして注釈がつけられています。

「われわれは、日本軍による合法的な死刑執行に対して何ら抗議する権利はないが、これがあまりにも非能率的で残虐なやり方でおこなわれていることは確かである」

国際委員会は便衣兵(いわゆるゲリラ)の処刑は合法的と考えていたわけですが、ラーベの日記にはこの見解が一切書かれていないのです。

 また、ラーベは支那兵を匿っているのです。
12月12日
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した」

龍と周は支那軍の大佐で、ラーベは彼らと停戦交渉をしていました。支那軍の将校を匿うということは国際委員会は中立ではなかったということです。実際、支那兵(便衣兵)は日本兵の行為に見せかけて悪事を働いていました。

 チャイナ・プレス 1938年1月24日 日本憲兵隊の報告書より引用
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいるといわれている。
 馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わったという」

 ラーベは龍と周が去った日の日記に「残念ながら我々の友情にはひびが入った」と書いており、彼らが悪事を働いていたことを匂わせる内容です。ラーベは知っていたはずです。しかし、ラーベは日本軍の暴行というプロパガンダヒトラーに上申したのです。




参考文献
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 河出書房新社日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 展転社「『南京虐殺』への大疑問」松村俊夫(著)
 草思社南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
添付画像
 陥落2日後の南京。大虐殺があったとされる日だが、市民の中には給湯器を持ち出して商売する人も。商売どころではないはずだが・・・
 水間政憲(著)「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」より 佐藤振寿カメラマンが撮影

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南京大虐殺はいったいどこで行われたのか

いくら探しても南京大虐殺の実態は出てこない。いったいどこで虐殺はあったのか。




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で13日の南京城陥落後、六週間にわたって30万人が殺害されるという南京大虐殺があったといわれてきました。南京のいったいどこで大虐殺があったのでしょう。

 南京市は城内、城外の都市部と近郊六県が行政区となっています。南京戦当時、城内は外国人メンバーで組織された国際委員会が管理する安全区が作られ、一般市民はそこへ避難し、日本軍は攻撃を加えませんでした。南京陥落後、国際委員会は日本側へ日本兵の非行を425件あげて抗議しました。冨澤信繁(著)「南京事件の核心」は事件をデータベース化して集計していますが、安全区の記録(徐淑希 編集 〜2/10)では殺人は26件です。目撃者が判明しているのはわずか1件。しかもこれは「われわれは日本軍による合法的な死刑執行に対して何ら抗議する権利はない」と書いてあり、虐殺ではありません。

 結論:安全区で大虐殺はなかった。

 安全区の外ではどうでしょうか。国際委員会のメンバーであるベイツは「戦争とは何か」で次のように書いています。
「ここに記録された事件(安全区の記録)はただ南京安全区内で起きたものだけであり、南京のこれ以外の場所は一月末まで事実上、無人地帯となっていたのであって、この期間中、ほとんど外国人の目撃者がなかったということである」

人がいないのですから虐殺などできません。陥落直後、南京に入城した日本軍兵士、日本軍記者も無人地帯だったと証言しています。

 第47連隊と入城した報知新聞の二村次郎カメラマン。
「中国人は誰もいませんでした」

 第23連隊 坂本氏
「残敵を掃蕩するため、連隊主力は城壁に沿い、私の第二大隊はその東方の市街地を北方に向かって前進した。ちょうど12時頃、道路の左側に飲食店が店を開いており、主人らしい一人の男がいたので、支那ソバか何かを注文し・・・一々家屋を点検した訳ではないが、前記の飲食店の男以外には市民も敵兵も見ず、また大した銃声も聞かなかった」

まったくゼロではなかったようです。支那の負傷兵と看護婦に出くわしたり、大量の敗残兵に出くわし「安心しろ」と支那語で話しかけた日本兵もいます。しかし、万単位どころか千単位もいるように思えず、ここで大虐殺が繰り広げられたという話もありません。

 結論:安全区の外で大虐殺はなかった。

 城外はどうでしょうか。城外は15マイル(約24キロ)にわたって支那軍による焦土作戦が展開されました。日本軍が使用できないように建物を焼き払うのです。人が住めるような状況ではありませんでしたし、戦闘地帯です。国際委員会のラーベ委員長は1月17日の日記に安全区の住民が増えたとして「5万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ」と書いていますが、冬の廃墟には住めないし、廃墟に万単位の人がいたところなど誰も見ていないので、もっと遠くに避難していた人たちが戻ってきた話をしているものと思われます。住民だったものは城内に入ることが可能でした。城外もほぼ無人だったということです。

 結論:城外で大虐殺はなかった。

 いったい、南京大虐殺はどこで起こったのか?戦闘に巻き込まれた市民とかはいたでしょうし、敗残兵の銃殺などは合法であり、これらは虐殺ではありません。困った虐殺肯定派の中には「ラーベは5〜6万と言っているが、彼の目の届かない郊外や、彼が去った後の犠牲者を足すと30万人ぐらいになるはず」笠原十九司)などと場所と時間を拡大させているのです。すると中共の学者は「30万人は南京城内だけの数字である。地域や時期を勝手に広げてもらっては困る」と言われる始末です。

 金陵女史文理学院ミニー・ヴォートリン日記 12月6日
「UP(AP)特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容に行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ」

郊外も日本軍が通った時は無人であり、そこで虐殺があったとしたら支那軍の仕業です。

 結論:日本軍による南京大虐殺はなかった。



参考文献
 小学館文庫「『南京事件』の総括」田中正明(著)
 展転社南京事件の核心」冨澤繁信(著)
 河出書房新社日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 偕行社「証言による南京戦史」
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)

添付画像
 陥落2日後の南京。大虐殺が行われているという日だが、市民は笑って子供を見ているような・・・
 水間政憲(著)「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」より 佐藤振寿カメラマンが撮影

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ヴォートリンが南京で見たもの

ヴォートリンは南京で8000件におよぶ強姦事件を何件見たのか。




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍は南京市を占領しました。ここで日本兵が殺人、略奪、強姦、放火といった蛮行を繰り広げたと言われています。難民を受け入れて国際委員会のベイツ(金陵大学教授、中華民国政府顧問)は「友人のドイツ人の統計によると強姦事件は二万人に上った。私は最低限度八千人とみている」(外国人の見た日本軍の暴行)と述べており、翌年は大ベビーブームが起こったでしょうが、そんな話はどこにもありません。

 若い婦女子の多くは金陵文理女学院に収容されており、ここはアメリカ人のミニー・ヴォートリン女史が責任者となっていました。強姦するなら、ここへ行けば手っ取り早い話です。ヴォートリン女史はさぞかし多くの強姦事件を目撃したことでしょうが、見たのは1件だけです。それも強姦?と首をかしげたくなるような話です。ヴォートリン日記には次のように書かれています。

12月19日
「キャンパスの裏手まできたとき、教職員宿舎へ行くようにと、取り乱した声で言われた。その二階に日本兵が上がって行った、という。教職員宿舎二階の538号室に行ってみると、その入口に一人の日本兵が立ち、そして、室内ではもう一人の兵士が不運な少女をすでに強姦している最中だった。日本大使館に書いてもらった一筆を見せたことと、わたしが駆けつけたことで、二人は慌てて逃げ出した」

これだけです。「強姦」と言っていますが、女性が悲鳴をあげたとか、助けを求めたとか、何も書いておらず、売春行為の可能性のほうが高いです。実際、売春婦は多くいました。24日に日本軍から学院へ売春婦の選別依頼がきています。

12月24日
「以後は女性を連行しないことを彼ら(日本軍)が約束したので、物色を始めることを承知した。・・・かなりの時間が経過してから、彼らはようやく21人を確保した。こうした物色がおこなわれていることを聞きつけて逃げ出した女性や、いまなお身を隠している女性もいると彼らは考えている。大勢の少女が次々わたしのところへやってきて、残り79人は品行正しい少女のなかから選ぶのか、と質したが、わたしとしては、わたしが言って阻止できるのであれば、そういうことにはならないはずだ、と答えるのが精いっぱいだ」

この場には国際委員会のラーベ委員長(ドイツ軍事顧問団の連絡員)も立ち会っていたようです。26日の日記にヴォートリン女史について書いたところに記載があります。

「ところでこの人(ヴォートリン)に恐ろしい事件が起こった!彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、めんどりがひなを抱くように大切に守っていた・・・さて、日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうととんでもないことを思いついた。何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、ミニは両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。ところがそこへ唖然とするようなことが起きた。我々がよく知っている、上品な紅卍字会のメンバーが(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いもよらなかったが)、なみいる娘たちに二言三言やさしく話かけた。すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのをちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った」

 ヴォートリン女史はとても純粋な人だったようで、同情を買って収容所に入り少しでも良い待遇を受けたいと思う支那人たちの、ありもしない日本兵の暴行というデタラメ話を頭っから信じてしまっており、日本兵を見かけるだけで憎悪を感じるようになっていました。

 もちろん日本兵による強姦事件はゼロということはなく、7件は記録されています。小都市に匹敵する8万の将兵がいるわけですから、事件が一件もないということはありえません。しかし、ベイツの八千人というような強姦が常態化しておこなわれていたということはなく、これらはデッチ上げのプロパガンダなのです。



参考文献
 大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 評伝社「外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリ(原著) / 訳者不詳
 河出書房新社日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
 展転社南京事件の核心」冨澤繁信(著)
添付画像
 陥落2日後の南京。大虐殺があったとされる日だが市民はのんびり水餃子を食べている。
 水間政憲(著)「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」より 佐藤振寿カメラマンが撮影

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陽気で無邪気で好奇心旺盛な江戸日本人

世界で一番人間性豊かな民族だったのかもしれない。




 フランス海軍士官・スエンソンは慶応3年(1867年)に横浜にやってきました。日本人が汚らしい声で何やら言ってくるのが耳に触りました。

「そしてこちらも疑い深い目で周囲の色黒でずんぐりした連中を観察する。みんな頬被りをしていて、見えるのは黒く光るふたつの目だけ、日本人はこうして顔を知られないようにするのである。しかし、西洋人の疑い深さも、日本にごく短期間滞在するだけでたちまち霧消してしまう。これら変装した人々が、人の好いおとなしい職人たちで、頬被りの下には正直で善良な顔をしており、口汚いかけ声も、辺りの連中を笑わせようと時々外国人をだしにして発せられる単なるふざけ半分の気まぐれにすぎないことが、やがてわかってくるからである」

 その後、スエンソンは大阪に行き将軍に謁見し、将軍の前でフランスの音楽隊の演奏とともに行進して、演習を披露しました。そして淀川を船で下ったときのことです。

「われわれの楽隊の演奏を聴きつけた町の住民が河岸まで集まってきた。こう告白するのはつらいことだが、西洋人は、どんなに立派に威厳をもって振る舞っても、その姿は日本人の大笑いの種にしかならないことがだんだんにわかってきた。陽気な大阪っ子にさよならをいったのも、かれらの笑いの渦に巻き込まれながらだった」

江戸日本人は陽気でした。

 新聞記者 英国人ブラック(文久3年 1863年来日)
「彼ら(日本人)の無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持ちよくした」

 ペリー艦隊画家のハイネは下田で奉行が選んだという娘たちの接待を受けました。そこでハイネは日本人女性の美しさに驚き、女性が内気さやはにかみさを見せないので、女性たちの着物をいじり、そのうち、頬をさわったりつねったり、その他ふざけてみると親族、代官、武士たちは声を合わせて大爆笑しました。異人であるハイネの無邪気さがおかしくもあり、楽しんでもらえていることがうれしくもあったわけです。自分でも楽しみ人にも楽しんでもらう陽気な江戸日本人がみてとれます。

 イギリス外交官アーネスト・サトウ文久2年 1862年来日)は宇和島にいったとき、町を歩いていると黒山のような群衆についてこられます。
「どこへ行っても私たちのあとからついてきて、衣服に触ったり、いろいろな質問を発したりしたが、それらの態度は至って丁寧だった。私は、日本人に対する自分の気持ちが、いよいよあたたかなものになってゆくのを感じた」

 英国軍人ジェフソン・エルマースト(慶応2年 1866年来日)は連隊の制服が、交代した連隊の制服と異なっていたところ、日本人が興味を持ったことを記しています。
「この事実はすぐに無限の質問の種になった。次には彼らの手が出て来て、われわれは全員ぐるぐる廻される羽目になり、制服のあらゆる部分をこまかく調べられてしまった」

「彼らの好奇心を悪くとったりするのは、不当というものだったろう。仮にわれわれがそうしたとしても、彼らは人の良い笑い声によって、われわれの判断を即座に正常にもどしてくれるのだった」

 日本女性も当然同じで、メキシコの天文学者・ディアス・コバルビアス(明治7年 1874年来日)は横浜の商店で出会った娘に服や手袋、それに刀、時計を調べられ、しまいには髭まで触られました。それでも彼は「仕事柄外国人との接触の多い女性は、知性の面では精錬されていないが、しおらしくて子供のように無邪気である」と述べています。スイスの外交官アンベールは日本人女性から軍服についていたボタンが欲しいとせがまれ、しぶしぶ与えたといいます。

 江戸日本人は陽気で無邪気で好奇心旺盛で、それは外国人から見て決して不快なものではなく、あたたかみのあるものでした。アメリカ人社会学者のスーザン・ハンレーは「18世紀、19世紀の庶民に生まれるならば私は日本人に生まれたかった」と述べましたが、江戸日本人は今では考えられないくらい人間性が豊かだったようです。



参考文献
 平凡社「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」エドゥアルド・スエンソン(著) / 長島要一(訳)
 岩波文庫「一外交官の見た明治維新アーネスト・サトウ(著) / 坂田精一(訳)
 双葉社「江戸明治 遠き日の面影」


添付画像
 歌川広重 江戸百景 両国橋大川ばた(PD)

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南京事件の日々

ヴォートリンは南京をどう過ごしたのか。




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍は南京市を占領しました。このとき、外国人による国際委員会が設置され、一般市民は安全区と言われる区域に保護されていました。ここで日本兵が蛮行を働いたとされ、国際委員会は日本の外交官補の福田篤泰氏に訴えでましたが、現場に行ってみると何もない、ということばかりでした。この訴えの中に金陵女子文理学院でおこった事件もあり、ここはアメリカ人のミニー・ヴォートリン女史が長となり、数千人の婦女子の難民の面倒を見ています。彼女の日記が「南京事件の日々」というタイトルで出版されています。

第二件「12月15日午後4時、日本兵は金陵女子文理学院校内付近で米を満載した馬車一両を強奪した」

このような訴えが日本大使館にきています。ヴォートリン日記にはどのように記されているでしょうか。

「いくつかの日本兵グループがやってきたが、何も問題を起こさなかったし、中に入れてくれと強要する者もいなかった」

校内で起こった日本兵に関することはこれだけです。

第九十四件「12月17日夜、日本軍人指導の捜索隊は金陵女子文理学院収容所の職員を脅迫して大門の入口に集め、(取り調べは)約一時間の長きにわたった。同軍人は捜索済みとなることを証明する書き付けをひき裂いた。同時に日本兵は収容所に乱入して婦女11名を拉致した」

便衣兵の摘出のことのようです。支那兵は平服に着替え、安全区に潜んでいました。ヴォートリン日記では次のように書かれています。

「夕食をとり終わったあとで中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向かっていることを知らせてくれた。二人の兵士が中央棟のドアを引っ張り、ドアを開けるようしきりに要求しているところに出くわした。鍵を持っていないと、言うと、一人が『ここに中国兵がいる。敵兵だ』と言うので、わたしは『中国兵はいない』と言った。いっしょにいた李さんも同じ答えをした。その兵士はわたしの頬を平手で打ち、李さんの頬をしたたかに殴ってから、ドアを開けるよう強く要求した」

「学院の責任者はだれか、と言ったので、わたしが名乗り出ると、彼らはわたしに、中国人の身分について一人ずつ説明するよう求めた。運の悪いことに臨時の補助要員として最近新たに雇い入れた使用人が何人かいて、その中の一人が兵士のように見えた」

こうして取り調べをやっているときに、国際委員会のフィッチ、スマイス、ミルズが到着しています。

「それが彼らの策略であったことに気づいた。責任ある立場の人間を正門のところで拘束した上で、審問を装って兵士三、四人が中国兵刈りをしている間に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が12人の女性を選んで、通用門から連れ出したことをあとで知った」

人数が1人異なりますが同じ話と考えてよく、これが婦女11名の拉致事件になったようです。ヴォートリン女史の話では強制的に連行したのかどうかがわかりません。実際日本軍は使役として男性を拉致?したりしていました。給料を払うこともあったし、食べ物を与えるだけで、喜んで働くものもいました。女性の場合は洗濯等の雑用係です。娘を日本兵の宿舎に連れて行って、食糧と引替えに置いていく母親とか、ある部隊が支那人に雑役婦を頼んだら、安全区に探しに行って連れてきたというのもあります。おそらくはそうした使役の募集でしょう。これを反日的態度の国際委員会が確認もせずに「拉致事件」としたのです。

第八十一件「12月20日午前3時頃、3名の日本兵が金陵女史文理学院第五百号の家屋に侵入し、二人の婦女を強姦した。その時には日本領事館の警察官が一人、門の入口に駐在していた」

おそらく学院に警備兵をつけたとき話でしょう。21日のヴォートリン日記に記載があります。
「朝食のあと、例の二五人の警備兵が昨夜危害を及ぼした(女性二人が強姦された)件について事情を聴取した。しかし、こうしたことには慎重に、しかも臨機応変に対処する必要がある。そうしないと兵士の恨みを買うことになり、そのほうが当面している災難にもまして始末が悪いかもしれない」

ヴォートリンは「強姦」と書いていますが、微妙な言い回しをしています。「事情聴取して慎重に臨機応変に対応」と言っていますから、警備兵の言い分も聞いたのでしょう。お金を払った上での合意の上の行為だったことを匂わせています。実際、難民の中には売春婦が多くおり、ヴォートリンの目の前で慰安婦を募集すると、大勢の女性が進みでることがあり、ヴォートリンは言葉を失ってしまうということがありました(21日)。

 これらのように日本大使館に訴えられた事件は、検証もせずに悪意に満ちた訴えでした。福田外交補は国際委員会の事務所に行くと、支那人が訴えてくるのをフィッチ神父が確認もせずタイプしているのを見て、「ちょっと待ってくれ、君たちは検証もせずにそれをタイプするのか」と問いただし、彼らを現場に連れて行くと何もない、住んでいるものも居ないということがあったと述べています。




参考文献
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 偕行社編「証言による南京戦史」
 大月書店「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト(編)/ 平野 卿子(訳)
 評伝社「外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリ(原著) / 訳者不詳
 河出書房新社日中戦争資料<9>」洞富雄(編)
 展転社南京事件の核心」冨澤繁信(著)

添付画像
 安全区ではバラックを建てて避難民は住んでいた。陥落2日後の写真で大虐殺があったとされる日。恐怖の日のはずだが、なんのこっちゃ。
 水間政憲(著)「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」より 佐藤振寿カメラマンが撮影

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外国人記者たちは南京大虐殺を見ていない

誰も見ていない南京大虐殺




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍による民間人を含めた大虐殺が行われたと言われています。それを報じたのがニューヨーク・タイムズ紙記者のF・ティルマン・ダーディン氏とシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者ですが、両者は自分の眼で大虐殺を見たわけではありませんでした。

 当時南京にいた外国人記者は「パラマウント・ニュース映画」のアーサー・メンケン氏、「ロイター通信」のスミス氏、「AP通信」のマクダニエル氏がいました。

 1938年1月14日世界日報 ロイター社スミス記者目撃談
「(12月)13日午後1時、南京城の大部分が日本軍に占領された。しかし北部はまだ中国軍の守るところだった。日本軍が城北に達したのは15日の朝であった。中国軍は完全に首都を放棄した」

1日のうちに平均1万以上の虐殺があったと言われるのに、何も言っていません。

 1937年12月17日 ワシントン・ポスト
アメリカ砲艦オアフから、日本の南京占領についての目撃者の第一報が届いた。パラマウント・ニュース映画のカメラマン、アーサー・メンケンは、かつての繁栄の都は、残虐な日本軍の陸・空からの攻撃による兵士・市民の死体が散乱する流血の巷と化していた、と無線で報告してきた」

戦闘による死者を報告しています。市民のほとんどは安全区という非武装地帯(ではなかった)におり、日本軍は攻撃していません。逃げ遅れた市民が戦闘の巻き添えを食ったということです。

 APのマクダニエル記者も「私の見た死者は戦死者であった。中国兵、日本兵ともに掠奪した。日本は安全区を守り、ここには攻撃を加えなかった」と書いており大虐殺など伝えていません。

 ロイターのスミス記者は15日にオアフ号で南京を離れました。その後、南京戦について講演を行っています。日付はわかりませんが、南京陥落の13日については次のように述べています。

「12月13日の朝、通りにはまだ日本軍の姿はありませんでした。町の南部は依然として中国軍の支配下にあったのです。中華門のあたりでは、夜、すさまじい戦闘がくりひろげられました。戦死した中国人は千人以上にのぼります。
 12月13日の夜になると、中国兵や民間人は略奪を始めました。まず襲われたのは食料品店です。一般の民家からも兵士が食料を持って出てくる光景が見られました」

 中華門の激戦は11日のことを言っていると思われます。13日夜の支那兵の略奪は12日夜の誤りと思われます。日本軍は夜間は外出禁止でしたから13日夜に隠れていた支那兵が略奪したのかもしれませんが。

「記者仲間のマクダニエル氏が、日本軍のパトロール隊を見かけました。かれらは6人から12人ぐらいで一団となり、メインストリートをゆっくり注意深く進んで行きました。ときたま銃声が鳴り響き、あちこちに市民が倒れていました。日本軍にいわせると、逃げようとして撃たれたというのです」

戦闘中ですから、逃げれば怪しいとみて撃つことはあります。また、市民といっても平服に着替えた便衣兵かもしれません。これらは日本兵が市民めがけて大虐殺をしたわけではありません。

「12月14日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。しかし昼ごろになると、6人から10人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿があちこちで見られるようになりました連隊徽章をはずしていて、家から家へと略奪を繰り返しました」

女性の靴ひとつ拾っても罰せられるくらい軍紀は厳しかったので略奪は考えにくく、支那兵が隠れていないか家を捜索していたのではないかと思います。あるいは徴発が考えられます。家のものが留守の場合は、受領証、借用証などをおいていきます。とにかく14日は大虐殺は見ていません。連隊徽章をはずしていたのは防諜対策で、部隊の居場所が敵のスパイに知られると困るからです。出征兵士はすべてそうします。

「12月15日、外国の記者団が南京から上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました・・・広場で日本軍が中国人を縛り上げ、立たせている光景でした。順次、引き立てられ、銃殺されました」

これはオアフ号に乗船したニューヨーク・タイムズのF・ティルマン・ダーディン氏とシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者も同じように目撃しています。見られて困るようなものではなかったということです。スミス記者は中国人としか書いていませんが、敗残兵、便衣兵です。戦闘は終わっていませんから、敗残兵は正規の手続きを踏んで降伏しなければ、捕虜の扱いになりません。合法的処刑です。便衣兵国際法上まったく保護されません。合法的処刑です。

 南京大虐殺は南京陥落後、3週間にわたり行われ、特に最初の3日間に集中したと言われていますが、その3日間、5人の外国人記者の中で実際に大虐殺を目撃した人はゼロです。



参考文献
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 草思社南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著)
 文教出版「真相・南京事件 − ラーベ日記を検証して」畝本正己 (著)
 小学館文庫「『南京事件』の総括」田中正明(著)

添付画像
 陥落2日後、野菜を売っている様子。大虐殺があったとされる日であるが、なんのこっちゃ。
 水間政憲(著)「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」より 佐藤振寿カメラマンが撮影

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スティール記者は南京大虐殺を見たのか

ダーディン記者もスティール記者も南京大虐殺を見ていない。




 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍による民間人を含めた大虐殺が行われたと言われています。それを報じたのがニューヨーク・タイムズ紙記者のF・ティルマン・ダーディン氏とシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者です。

 シカゴ・デイリー・ニューズ 南京、12月14日発
「私は、日本軍が無力な住民を殴ったり突き刺したりしているのを見た。また病院では、大勢の市民が銃剣創傷で苦しんでいるのを見た。
 また街路に死体が散乱しているのを見た。そのなかには人に傷害を与えたとはとても思えない数名の老人も含まれていた。また処刑された男たちの死体の折り重なる山をも見た」

 スティール記者は金陵大学のベイツ教授(中華民国政府顧問)のメモを手渡されていました。

 アメリ総領事館がワシントン国務長官に宛てた文書(1938年1月5日)
「南京大学のシール・ベイツ博士が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』記者のアーチボルド・スティール氏が当総領事館の館員に手渡したものである」

 ベイツメモ
絶えざる虐殺、大規模の計画的掠奪、家宅侵入、婦女凌辱等一切はすべて無統制であった。外国人居留民は事実その眼で路上に充満する良民の死体を見た。南京中区では辻ごとに必ず一個の死体が転がっていた。その大部分は13日午後および夜間日本軍の入城時に銃殺もしくは刺殺されたものであった」

ティール記者はベイツメモを頼りにして記事を書いた可能性があります。

 スティール記者は15日に米艦オアフ号に乗って南京を離れました。その時に300人の支那人の処刑を見たと書いています。

「南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして300人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった」

これはベイツメモにありません。同じ船に乗ったニューヨーク・タイムズのダーディン記者も見ていました。

 ニューヨーク・タイムズ(1937年12月18日) 17日オアフ号発
「上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した」

 後年ダーディン氏はこのときの様子を次のように語っています。(昭和62年(1987)8月)
「私が南京を離れる時に、川岸に沿って何千という中国兵の捕虜が連行されて来ていて、50人ずつ引き立てられては機関銃で殺されていました」

つまり敗残兵の処刑だったわけです。15日はまだ戦闘中ですから敗残兵の処刑は合法的です。

 昭和62年(1987年)9月、歴史家の笠原十九司氏がスティール記者にインタビューしています。そしてズバリ聞いています。

− 中国人が虐殺される場面を見ましたか。

ティー「はい。大勢の兵隊が銃殺されるのを見ました。整然と順序だって銃殺されていました。道路脇で、単独であるいは小グループで銃殺されているのを沢山見ました。目の前で銃殺されました。兵士だけでなく、民間人も手にタコがあると銃殺でした。手のタコは兵士であった証拠とされたのです。この写真(中華門で撮影した写真)の人が兵士か民間人か分かりません。日本軍は兵隊を探していましたが、民間人も大勢殺されたことは確実です」

 スティール記者は兵士の銃殺は「見た」といっていますが、民間人が殺害されたというのは「見た」といっておらず、「確実です」と言っています。これはあくまでスティール氏の推測の上で「確実」と言っているに過ぎません。見たら「見た」と答えます。確かに支那兵は便衣兵となって軍服を脱いで民間人の中に紛れ込んだので、日本軍は誤って民間人を銃殺してしまった可能性はあります。しかし、それがすなわち「大虐殺」に結びつくとは言えません。スティール氏も「見た」と言えないようなものでした。スティール氏は南京大虐殺を見ていないということです。



参考文献
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 草思社南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 評伝社「外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著 訳者不詳
 展転社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)

添付画像
 中山路と中山北路の西側の一区画(PD)
 15日に佐藤振寿カメラマンが撮影したもの。南京大虐殺があったとされる日である。恐怖のあまり逃げ惑っている市民の様子???
 水間政憲(著)「ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実」より

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 スティール記者の撮影した写真「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」より七つ目までは中華門。死体は戦闘によるもの。
 スティール記者は城外の写真は撮っているが、これは記事に掲載していない。城内の写真を撮らなかった理由を後年のインタビューでは「南京の城内で写真を撮っているのを発見されたら、おそらくカメラは取り上げらていたでしょう」と述べている。しかし、日本人記者は問題なく撮影できており、他の外国人記者が撮影した写真も存在する。








8 支那兵が連行されているとしている。

9 掃討戦。日本兵がこちらを見ている。

10 支那兵がロープをつたって城外へ脱出した跡。