ダーディン記者は南京大虐殺を見たのか

ダーディン自身は南京大虐殺を見ていなかった。




 昭和12年(1937年)12月、支那事変の南京戦で南京大虐殺があったと世界に知らせたとなっているのはニューヨーク・タイムズ紙記者のF・ティルマン・ダーディン氏です。ダーディンは南京大虐殺を見たのでしょうか。

 ダーディンは12月15日まで南京にいました。ですので南京陥落13〜15日の間に大虐殺を見たことになります。ダーディンは南京を去るとき、国際委員会のベイツ教授に車で港まで車で送ってもらっています。ベイツ教授は国民党顧問です。国際委員会はみな国民党よりで反日です。ベイツ教授は自分の書いたメモをダーディンに渡しました。東中野修道(著)「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」で、ベイツメモとダーディン記事の比較を行っており、表現の違いはあれどほぼ内容が一致しています。原資料からいくつか引用してみます。

 ベイツメモ
「しかるに日本軍の入場後、二日間にして我々の希望のすべては無慙(むざん)にも破れてしまった、絶えざる虐殺、大規模の計画的略奪、家宅侵入、婦女陵辱等一切はすべて無統制であった。外国人居留民は事実その眼で路上に充満する良民の死体を見た」

 ダーディン記事
「ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、成年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」

 ベイツメモ
「日本軍は中国の警官を脅迫して難民区の中から四百人の難民を引っ張り出し、五十人を単位に一列に並ばせ、小銃、機関銃で背後から威脅しつつ引いて行った。その運命や知るべきである」

 ダーディン記事
「安全区の中にある建物からは、400人の男性が逮捕された。彼らは50人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った」

 ただ、ダーディン記者は単純にベイツメモをすべてそのまま利用したとは言い切れず、そのもとは諸々の未確認情報がもとになっている部分もありそうです。

 ベイツメモ
「日本軍は鼓楼病院職員から金銭および時計を、また看護婦の宿舎にあった物品を強奪した」

 ダーディン記事
アメリカ伝道団の大学病院の職員は、現金と時計を奪われた。ほかに、看護婦の宿舎からも品物が持ち去られた」

この記事のおおもとになっているのはベイツらの国際委員会が日本当局に提出した記録です。

「第六件 12月14日、約三十名の日本兵が鼓楼病院と看護婦宿舎を捜査した。院内の職員はことごとく掠奪に遭った。万年筆6本、法幣180元、時計4個、繃帯(ほうたい)二包、懐中電灯二、手袋二、毛糸シャツ一」

 国際委員会が日本へ訴え出ているのはほとんど確認されていないものばかりで、収容所に入りたいための支那人の嘘の被害主張や流言などで、これらを直接、ダーディンが聞いていた可能性はあります。

 ではこの3日間、殺人はどれだけあったか?安全区の記録をデータベースに登録し集計した冨澤繁信(著)「南京事件の核心」によると数字は以下の通りです。

 12月13日 0件
 12月14日 1件
 12月15日 4件

全部で5件です。目撃者が判明した殺人事件はゼロです。ベイツは安全区以外は「無人地帯」(「戦争とは何か」から)と言っていますから、安全区の事件が南京事件のすべてです。つまりベイツを含む国際委員会のメンバーは殺人を見ていません。東京裁判でも国際委員会のメンバーが殺人を見たと証言したのはマギー牧師が17日に1件だけで、事件は合法です。他はクレーガーとハッツが1月9日に便衣兵の処刑を見たのが1件だけで、これも合法です。15日以前は誰も見ていないのにダーディンだけが大量殺人を見たとは考えられません。ベイツさえも見ていないメモの通り記事にしただけと言えます。

 ただ、ダーディンは船で南京を去る際、200人の男性が処刑されるのを見ています。これは支那の敗残兵、便衣兵です。日本軍兵士の65連隊の記録を見ても「揚子江岸に捕虜の銃殺を見る」という記載が見られます。同じものかは断定できませんが、ダーディンも見たのでしょう。15日はまだ戦闘が終わっていませんから、敗残兵の処刑は合法であり、便衣兵の処刑は常に合法です。彼らは武器を隠し持って安全区に隠れています。ダーディンが見たのはこれだけと言えます。



参考文献
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 草思社南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)
 評伝社「外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ(原著) 訳者不詳
 河出書房新社日中戦争資料集<9>」日中戦争史資料編集委員会(編)
 展転社「データベースによる事件の解明 南京事件の核心」冨澤繁信(著)
 大月書店「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」小野賢二・藤原彰本多勝一(編)
 明成社「再審『南京大虐殺』 世界に訴える日本の冤罪」竹本忠雄・大原康男(共著)

添付画像
 陥落2日後の南京。大虐殺があったとされる日である。日本兵が水餃子を食べている。 水間政憲(著)「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」より佐藤振寿カメラマン撮影。

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南京虐殺を世界に知らせたというダーディンは嘘をついたのか

ダーディンは嘘をついたのか?




 昭和12年(1937年)12月、支那事変の南京戦で南京大虐殺があったとして、ニューヨークタイムズのF・ティルマン・ダーディン氏が12月18日に伝えました。

 ニューヨーク・タイムズ宛特電
「南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった」

 彼の記事の中に下関門の虐殺記事があります。
「日本軍の下関門(邑(手へん付)江門)の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、高さ6フィート(約1.8メートル)の小山を築いていた。水曜日遅くになっても日本軍は死骸を片付けず、さらには、その後の二日間、軍の輸送車が、人間も犬も馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した」
「日本軍に抵抗するとひどいめにあうぞと中国軍に印象づけるため、日本軍は出来るだけ長く恐怖の状態にしておきたい意向のようだ」

 邑江門の死体については日本の関係者も見ています。

 上海派遣軍参謀 大西一大尉
「13日にはまだ戦闘が続いていまして、首都飯店付近までしか行けませんでした。邑江門に行った時は両側が死体でいっぱいだった」

 この邑江門の凄惨な光景は南京大虐殺の象徴的な光景として日本の歴史教科書にも紹介されているといいます。

 支那軍第87師261旅長
「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希廉(さんずい付)麾下(きか)の第36師212団は、撤退命令を出された後も、邑江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、邑江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニックになり、邑江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しようとした第36師212団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、邑江門内は大惨事となった」

 支那軍には督戦隊というのがおり、逃げる兵を後方から撃ち殺すのです。つまり邑江門の死体は督戦隊により殺された支那軍兵士の死体でした。邑江門の土嚢を撤去して入城した歩33の兵士たちも死体は門内に既にあった、としています。これらの死体は城外に逃げようとして殺害されているのですから、あとから見た場合、城外からやってくる日本軍との交戦によるものだと勘違いした可能性があります。シカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者も似たような記事になっています。

 昭和62年(1987年)に歴史学者笠原十九司氏がダーディンにインタビューしています。その中で邑江門の死体について語ったところがあります。

「この下関区域では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。前にも話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らなければなりませんでした。この門から脱出しようとした中国兵の死体です。中国兵はあちこちで城壁に攀(よ)じ登り脱出を試みました。これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域では戦闘がありませんでした」

ダーディンは戦闘の後に死体を見て勘違いしたのではなく「戦闘はなく」「日本軍が占領する前にあった」ことを知っていたわけです。それを日本軍による「集団殺戮」と書いた記事にしていたのです。不当な殺害として印象付ける意図があったわけです。

 ダーディンはなぜ虐殺を捏造したのか。もともとニューヨーク・タイムズ反日的なメディアで、ダーディン氏はニューヨーク・タイムズでの初仕事でした。ですので「反日」記事を強力に仕立て上げ、認めてもらうため、ペンが滑ったのかもしれません。




参考文献
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会(編訳)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 明成社「再審『南京大虐殺』世界に訴える日本の冤罪」大原康男/竹本忠雄(共著)
 日本図書刊行会「本当はこうだった南京事件」板倉由明(著)

添付画像
 陥落2日後の南京。大虐殺があったとされる日に市民が衣類を売り始めている。水間政憲(著)「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」より佐藤振寿カメラマン撮影。

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礼儀正しく、親切だった江戸日本人

知らない人にでも挨拶し、親切だった。




 幕末に来日した宣教師、S・R・ブラウン(安政6年 1859年来日)は、江戸幕府からキリスト教を広めるのではないかとの疑惑をいつも意識させられていました。ある日、街路を歩いていると、家来を連れた幕府の警察上役人に出会います。するとその役人はいつも疑惑の目を向けていたブラウンの手を取り会釈して「役目の期間が終わったので江戸に行きます。また別れのあいさつをしに行きたいが、時間がないのでそれもできず、恐縮の至です」と言って別れました。その役人は他の宣教師にも同じような挨拶を繰り返したというのです。ブラウンはさっぱり合点が行きませんでした。敵視する相手にも江戸日本人は礼儀正しく接していたのです。

 米総領事通訳・ヒュースケン(安政3年 1856年来日)
「私が知りあった役人や貴族たちの中には、上下を問わず、一人としてわれわれに招かざる客であるという気持ちを感じさせるような人はいなかったのである。それどころか、もっとも寛大な友情と、もっとも懇篤(こんとく)な礼節をもって歓迎してくれたのだ」

幕府は本来、開国には否定的でしたが、だからといって無礼な振る舞いはしなかったのです。

 スイスの外交官、エメェ・アンベール(文久3年 1863年来日)は横浜の沿岸を散策し、日本人の礼儀正しさ、親切心を著書に記しています。
「沿岸地帯に住んでいる善良な人たちは、私に親愛をこめた挨拶を交わし、子供たちは、私に真珠の貝を持ってくるし、女たちは、籠の中にたくさん放り込んでいる奇妙な形をした小さな怪物をどのように料理すればよいかを、できるだけよく説明しようと一生懸命になっている。親切で愛想のよいことは、日本の下級階層全体の特性である」

「よく長崎や横浜の郊外を歩き回って、農村の人々に招かれ、その庭先に立ち寄って、庭に咲いている花を見せてもらったことがあった。そして、私がそこの花を気に入ったと見ると、彼らは、一番美しいところを切り取って束にし、私に勧めたのである。私がその代わりに金を出そうといくら努力しても、無駄であった。彼らは金を受け取らなかったばかりか、私を家族のいる部屋に連れ込んで、お茶や米で作った饅頭(餅)を御馳走しないかぎり、私を放免しようとはしなかった」

現代から見ると知らない人からそんなにもてなされるなど、親切すぎて困惑しそうなくらいです。

 フランス海軍士官・スエンソン(慶応3年 1867年来日)
「小さな村落に、ぽつんと立った農家が華やかな色に輝く畠のあちこちに散在していた。男も女も子供らも野良仕事に精を出し、近づいていくと陽気に「オヘイヨ」(おはよう)と挨拶をしてくる・・・老若をとわずわれわれに話かけてきて、いちばん見晴らしの良い散歩道を指示してくれたり、花咲く椿の茂みを抜けて半分崩れかかっている謎めいたお堂に案内してくれたりする」

誰にでも挨拶をして、話かけ、親切に案内してくれたのです。もっとも、外国人が最初に出現した頃は庶民は外国人に石を投げたりして、幕府が取り締まっています。そして一旦受け入れるとなると、庶民は平静に戻っていきました。

 イギリスの詩人エドウィン・アーノルド(明治22年 1889年来日)が日本人の礼節について次のように述べています。
「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でも嫌われる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言(ばげん)を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである」

アーノルドの言葉は、なるほど、と日本人なら思うことでしょう。

 現代はどうでしょうか。元自衛隊の池田整治さんは単身赴任から戻ってきて、朝の通勤のとき、初日以来数日間、いつも一緒に乗るOL風の女性がいたので、あるとき駅のホームで「おはよう」と声をかけたところ、怪訝な顔をされて半歩遠ざかり、翌日から消えてしまったといいます。数日後、遥か遠くの車両に乗っているその女性を見つけました。幕末期に外国人に感動を与えた日本人の礼儀正しさ、親切心は「凶器」になってしまっていると池田さんは嘆いています。また、池田さんの話しでは小6の長女が学校で「知らない人には絶対挨拶してはダメ」と指導されたといいます。ああ残念、日本人の美徳は消えていくのでしょうか。しかし、最近では「ハイタッチ運動」というのがあり、まだまだ捨てたものではないでしょう。




参考文献
 平凡社「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 岩波文庫「ヒュースケン日本日記」青木枝朗(訳)
 講談社学術文庫「絵で見る幕末日本」エメェ・アンベール(著) / 茂森唯士(訳)
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」エドゥアルド・スエンソン(著) / 長島要一(訳)
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著) / 山口光朔(訳)
 ビジネス社「マインドコントロール」池田整治(著)
参考サイト
 「病みつきになる」ハイタッチ、若者中心に拡大 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120302-OYT1T00616.htm

添付画像
 アメリカの水兵を描いた浮世絵。1859年(PD)

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南京虐殺幕府山事件の印象操作

自衛行為だった幕府山事件。




 昭和12年(1938年)12月の南京戦でよく言われるのが南京城外の幕府山で捕虜を大量処刑した、という話です。これが南京虐殺に相当するというものです。関与したのは山田支隊の歩兵第65連隊両角(もろずみ)部隊と言われています。部隊は揚子江沿いに進撃し、幕府山で約14,000人の敗残兵を捕獲し、いったん収容したものの、揚子江岸に連れ出して殺戮したというのです。

 笠原十九司南京事件」歩65連隊第八中隊遠藤高明少尉の陣中日誌 十二月十六日
「捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引き出しI(第一大隊)において射殺す。一日二合宛給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし」

 歩65連隊第七中隊 大寺隆上等兵の陣中日記 十二月十八日
「昨夜まで殺した捕リョは約二万、揚子江に二箇所に山のように重なっているそうだ。七時だが片付け隊は帰ってこない」

 こういう証言を取り上げて「大虐殺」としているのです。兵士は単に命令を受けて動いているだけで、命令の経緯を知らなかったり、その場で見たもの、やったことだけを簡単に日記に記したりします。全体像を見るには証言をパズルのように組み合わせ、上級幹部の証言や命令書、戦闘詳報などと付き合わせていく必要があります。それをすっ飛ばして「大虐殺」としているのです。印象操作です。読んだ人は「南京大虐殺だ」と思ってしまうでしょう。

 亜細亜大学教授の東中野氏がこれらの証言を組み合わせて謎解きを行なっています(南京虐殺の徹底検証)。これに沿って他文献と照合してみます。

 まず14,000人の敗残兵の中から非戦闘員を解放し、8,000人になります。それを幕府山南麓のバラックに収容します。

 山田支隊長の日記 12月15日
「捕虜の始末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す 皆殺せとのことなり 各隊食料なく困窮す」(原文カタカナ)

 皆殺せ、ということです。これについては緒論ありますが、全体像を掴むためおいときます。まずは山田日記は遠藤高明少尉陣中日誌と一致します。

 幕府山要塞の地下に食糧が見つかって支那兵捕虜は自ら炊事を始めました。収穫時期から間もないので、探せばどこかに食糧はあったようです。第八中隊の近藤伍長の日誌に「午后、米徴発に行く、幸いに南京米が沢山あつたので六本駄馬を持つて取つて来る、支那の工兵の材料集積所らしい」とあります。そして、収容所で火事がおきます。火事のことは兵士たちの記録にもあります。放火です。時間が違いがありますが、陣中日誌というのは戦闘期間に書くのは困難で、後で記憶をたどって書くものですから、記憶違いなどが多くあります。

 両角連隊長手記
「ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくとも四千人ぐらいは逃げ去った」

 こういうことがあったので、軍は態度を硬化させ、銃殺しろ、と言ってきたと思われます。大寺上等兵の17日の日誌には「時々小銃弾が頭の上をかすめて行く」と書いているほどゲリラが出没していました。戦闘はまだ終了していないわけで、捕虜はまだ捕虜と言えず、捕虜の資格もないゲリラ予備軍ですから危険な存在です。これが遠藤少尉の16日「捕虜の三分の一を江岸に引き出しI(第一大隊)において射殺す」につながります。処刑はあり、それには理由があったのです。

 両角連隊長手記
「17日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ」
「軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発泡したので・・・この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ」

 17日の事件は捕虜の暴動がおき、これで日本兵士が鎮圧のため銃撃したのです。日本兵も死傷者が出ています。発砲がどこから起こったかは諸説ありますが、両角連隊長の手記と六十五連隊の生き字引と言われる平林少佐の証言は一致しており、捕虜を逃がすためだったのは間違いありません。一般兵士は経緯を知らないものや、単に射殺したとか書いているだけです。これが南京大虐殺の証言として利用されたわけです。これらは虐殺ではなく、自衛行為に相当します。



参考文献
 岩波新書南京事件笠原十九司(著)
 大月書店「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」小野賢二・藤原彰本多勝一(編)
 転展社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
 日本図書刊行会「本当はこうだった南京事件」板倉由明(著)
 WAC「南京大虐殺まぼろし」鈴木明(著)
添付画像
 日本の部隊に収容された中国人捕虜の一部 (昭和12年12月16日)(PD)
 
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 平林少佐証言 「南京大虐殺まぼろし」より

 大量の捕虜を収容した、たしか二日目(15日)に火事がありました。その時、捕虜が逃げたかどうかは、覚えていません。もっとも、逃げようと思えば簡単に逃げられそうな竹がこいでしたから。それより、問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。それに、向こうの指揮官というのがいない(※)から水を分けるにしても向こうで奪い合いのケンカなんです。庭の草まで食べたという者もいます。ただし、若い将校はしっかりしていました。感心したのを覚えています。

 捕虜の間におびえた表情はあまりなかったと思います。兵隊と捕虜が手まねで話をしていた記憶があります。出発は昼間だったが、わずか数キロのところを何時間もかかりました。とにかく、江岸に終結したのは夜でした。その時、私はふと怖くなってきたのを今でも覚えています。向こうは素手といえども十倍以上の人数です。そのまま向かって来られたら、こちらが全滅です。とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上がった。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。一挙にわれわれに向かってワッと押しよせて来た感じでした。殺された者、逃げたもの、水に飛び込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。

 ※指揮官がいないというのは、国際法上捕虜の資格がないことを示す。


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と き:平成24年11月14日(水)午後7時開会(6時30分開場)

ところ:文京区民センター2A会議室(定員:300名)
    都営地下鉄三田線大江戸線「春日」駅A2出口(区設真砂小売市場2階)

登壇者:伊藤哲夫宮崎正弘水島総花田紀凱稲田朋美藤岡信勝高池勝彦弁護士、尾崎幸廣弁護士、荒木田修弁護士ほか(予定)

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無人地帯で南京大虐殺は不可能

人がいないのに大虐殺などできない。




 昭和12年(1937年)8月13日、支那軍が上海の日本海軍陸戦隊を攻撃し、第二次上海事変が勃発しました。支那軍は3万、日本海軍陸戦隊はわずか4千。日本は陸軍を派遣します。戦闘は大激戦となり、11月5日の日本第十軍の杭州湾上陸により、ようやく転機が訪れ、支那軍は敗走に向かいます。そして南京へと追撃戦となりました。

 敗走する支那軍は匪賊となり、民間人を襲いました。

 蒋介石日記(11月30日総括)
「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略) 敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍規逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」

 支那軍は退却時、通過した村を焼きはらって、建物や食料を日本軍に使わせないようにするのです。焦土作戦あるいは清野作戦といいます。南京の郊外から市街へ難民が移動していきました。

 金陵女子大 ミニー・ヴォートリン女史 12月6日
「UP(AP)特派員のマクダニエルが今日話してくれたところでは、きのう句容に行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの焦土作戦だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている」

 南京市街は11月になって難民が押し寄せてきましたが、その後、日本軍が南京へ進撃してくると市街からも脱出していくようになります。

 金陵大学 スマイス教授報告 11月初旬の人口
「一年前、南京市の人口はちょうど100万を越したところであった。この数字は8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った」

 11月に難民が押し寄せてきたことがわかります。

 笠原十九司南京事件」 11月23日中国抗日戦争史学会編「南京大虐殺」 南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50万余である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食料送付が必要である」

 南京の状況 米大使館アチソン書記官 本国宛報告 11月27日付
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」

 27日付けですから25日近辺で市長から聞いたものと思われます。どんどん南京から市民が去っていったことがわかります。日本軍は25日には上海と南京の中間あたりに進出しています。

 安全区国際委員会委員長ラーベ 11月28日の日記
警察庁の王固盤は、南京には中国人がまだ二十万人が住んでいるとくりかえした」

 更に減少しています。食料の確保や治安維持面で行政は人口の把握は不可欠でした。混乱の中、正確な把握は無理としても推測する手法は持っていたと思われます。そして難民はジョン・ラーベを委員長とし、外国人で構成される「南京安全区国際委員会」が管理する中立地帯である安全区に避難しました。

 金陵大学 スマイス教授報告冒頭
「市の陥落当時(十二月十二〜十三日)の人口は二十万人から二十五万人であった」

 13日に日本軍は南京を陥落させました。そのとき、市民は安全区に集中しました。南京防衛軍は城外に脱出するか、安全区の中に逃げ込んだのです。南京城内の安全区外、南京城外は無人地帯となっていました。日本軍は南京城内に入り掃討戦を開始しますが、無人の中の掃討戦でした。

 歩兵19連隊第四中隊長 土屋正治 光華門より入城
「市街に深く進入すればするほど、まさに『死の街』という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、粛然とした軒並のみが果てしなく続いていた」

 報知新聞 二村次郎カメラマン 中華門より入城
「中国人は誰もいませんでした」

 掃討戦と称して日本軍が大挙乱入して大虐殺を繰り広げたなんてことは考えられないのです。入城する部隊は限られており、入城しても市民も支那兵も誰もいなかったのですから。市民と衣服を着替えて隠れた支那兵がいる安全区を担当したのは12月24日まで第九師団の第7連隊です。約1600名です。他の部隊は安全区に入ることはできませんでした。1600名の第7連隊が安全区にいる20万人を皆殺しにすることなどありえません。




参考文献
 小学館日中戦争はドイツが仕組んだ」阿羅健一(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 大月書店「南京事件の日々」ミニー・ヴォートリン(著) / 岡田良之助・伊原陽子(訳) / 笠原十九司(解説)
 日中戦争史資料〈9〉南京事件 (1973年)
 岩波新書南京事件笠原十九司(著)
 青木書店「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」南京調査研究会(編訳)
 講談社文庫「南京の真実ジョン・ラーベ(著) / エルヴィン・ヴイッケルト (編集) / 平野 卿子 (翻訳)
 展転者「南京事件の核心」冨澤繁信(著)
 偕行社「証言による南京戦史」
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)

添付画像
 中山門へ突進/南京城の城門中最も堅固なる中山門は、敵が最後まで死守したにも拘らず、我が猛攻によって13日遂に占領され、各部隊は勇躍敵の心臓部たる城内目指して突進して行く(1937年12月13日撮影)(PD)

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いま、とんでもない裁判が始まろうとしています。
こんなことが許されるのでしょうか!「中国で判決確定、賠償金は日本で強制執行

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「南京裁判」展転社を支援する会会報第1号 http://www.tendensha.co.jp/saiban/241017.html

「南京裁判」展転社を支援する報告決起集会

と き:平成24年11月14日(水)午後7時開会(6時30分開場)

ところ:文京区民センター2A会議室(定員:300名)
    都営地下鉄三田線大江戸線「春日」駅A2出口(区設真砂小売市場2階)

登壇者:伊藤哲夫宮崎正弘水島総花田紀凱稲田朋美藤岡信勝高池勝彦弁護士、尾崎幸廣弁護士、荒木田修弁護士ほか(予定)

入場無料

主催:「南京裁判」展転社を支援する会


南京虐殺の人口トリック

20万人を30万虐殺できない。




 ホロコースト、広島・長崎の原爆とならぶ世界三大虐殺と言われてきた「南京大虐殺」ですが、陥落当時(昭和12年 1937年12月13日)の南京の人口が20万であるのに、30万殺害できるわけがないことは小学生でもわかります。なのに南京大虐殺があったあったと叫ぶ人たちがいます。この人たちは南京の人口についてどのようなトリックを使っているのでしょうか。

 岩波新書南京事件笠原十九司(著)より
「日中全面戦争勃発前の南京城区の人口は100万人以上であったが、日本海軍機の連日の空襲のために同区の人口は激減していき、37年11月初旬には50万近くになっていた(スマイス「南京における戦争被害」)。同11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡には、『調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食料送付が必要である』と記されている(中国抗日戦争史学会編“南京大屠殺”)。」

 スマイスというのは金陵大学の社会学教授のことで、昭和13年(1938年)3月、南京市内の50家族から1家族を選び出すサンプリング調査により南京戦の被害統計をとっています。現在のテレビの視聴率調査のやり方と思えばいいでしょう。このスマイス報告の中で昭和12年(1937年)11月初旬の南京の人口は50万と記述されており、笠原氏は市の調査でも50万で、スマイス報告は公式統計と同等に正確だとしているのです。

 スマイス報告
「一年前(1937年)、南京市の人口はちょうど100万を越したところであった。この数字は8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。」

 そして笠原氏は陥落直前の南京の人口を次のように述べています。

「その後、南京城区から安全と思われた近郊農村に避難していった市民も多かったが、いっぽうでは、南京防衛軍の『清野作戦』の犠牲になった城壁付近の膨大な農民が難民となって城内に避難してきたし、日本軍の南京進戦に追われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。したがって、南京攻略戦が開始されたときに、南京城区にいた市民はおよそ40〜50万であったと推測される」

 笠原氏は人口が20万に減るところを農民が押し寄せたので40〜50万と推測しているのです。ところが、笠原氏が正しいとするスマイス報告では20−25万という数字が出ているのです。

 スマイス報告冒頭
「市の陥落当時(十二月十二〜十三日)の人口は二十万人から二十五万人であった。我々が三月に行った抽出調査で報告された人員を五十倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている二十二万千百五十人という人口数が得られる。この数は当時の住民総数のおそらく八十ないし九十パーセントを表していたものであろうし、住民の中には調査員の手の届かぬところに暮らしていたものもあった」

これがトリックで、笠原氏はスマイス報告の12月を無視したのです。立命館大学文学部教授の北村稔氏によると中華人民共和国で出版された著にもこのスマイス報告の冒頭部分はカットされているといいます。つまり陥落前は50万人にしたいのです。そして陥落後の翌年3月の人口の資料20万人近辺をとりあげて50−20=30として30万人虐殺されたとしているのです。

 南京陥落前の12月7日、支那軍は南京城外の半径16キロの村落、建物を焼き払い、日本軍に使用させないようにしました。8日には支那軍の唐生智司令長官が城内すべての非戦闘員に対して「難民区」に集結するよう布告しました。よって市民は「難民区」に集結し、それ以外はほぼ無人地帯となったのです。この難民区を管理する安全区委員会は南京の人口を20万としています。難民たちの食糧問題に頭を悩ませていた安全区委員会にとって人口を正確に把握する必要があったのです。

 20万の人口を30万殺害できません。マイナス10万になります。その後、南京の人口は増えていってますから、南京大虐殺などありえないのです。もし、南京大虐殺があったとしたなら、市民を20万殺害し、幽霊を10万殺害し、ドラゴンボールで市民を蘇らせたとしか考えられません。



参考文献
 岩波新書南京事件笠原十九司(著)
 文藝春秋「『南京事件』の探求」北村稔(著)
 明成社「再審『南京大虐殺』 世界に訴える日本の冤罪」大原康男・竹本忠雄(共著)
 日中戦争史資料〈9〉南京事件 (1973年)

添付画像
 陥落2日後の南京市民の様子。大虐殺があったとされる日である。水間政憲(著)「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」より佐藤振寿カメラマン撮影。
 

そのほか南京の人口に関する情報


1)米副領事エスピーの本国への報告・・・20万
2)安全区委員会ラーベ委員長のドイツ大使館への報告・・・20万。11月28日の日記には警察庁長王固盤が20万と繰り返し述べていることを記載。12月10日の日記にも「20万」とある。
3)ドイツ・フランクフルター紙の特派員リリー・アベック女史「南京脱出記」・・・「ようやく15万を数える小都市になり下がってしまった」
4)日本軍の捕虜となった張群思少佐・・・「南京衛戍の兵力数5万、非戦闘員10万」
5)日本軍の捕虜となった劉啓雄少将・・・市民数「概ね20万」
6)日本軍松井石根大将「陣中日誌」12月20日・・・「避難区に収容せられある支那人は概して細民層に属するものなるも、其数12万余に達し」
7)日本軍による居住証明書の発行・・・16万(婦女子や老人、子供除く)

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失われていったユートピア、江戸文明

愛しき純ニッポン。




 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、黒船来襲。ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊が浦賀沖に現れます。以降、江戸幕府は開国の道を歩むことになります。嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約締結、安政5年(1858年)にアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5ヵ国それぞれと修好通商条約を結びました。

 それまで日本は日本国内だけで物とお金を循環させる高度な循環型社会、リサイクル社会を築いていました。しかし、それは開国と同時に崩れていきました。すべての物資は受給一致していましたが、貿易によって海外に流れ出したのです。また金銀交換比率の違いにより、日本の金が大量に海外に流出してしまいました。庶民に襲ってきたのは物資不足、激しいインフレでした。

 イギリス公使オールコックは著書「大君の都」の中で、幕府の輸出制限における交渉で外国掛閣老首座が次のように話したことを書き留めています。
「われわれは、何世紀ものあいだ他の世界から孤立していたし、われわれじしんのために必要なものはすべて生産してきた。われわれがしたのはただそれだけで、それ以上のことはなにもしなかった。ところが、いまやとつじょとして、われわれは五つのヨーロッパ諸国と外交関係をもつにいたった。そして、国内の消費物資のうちの特定のものにたいする需要が増大した。しかもそれは、それ相応の物価騰貴をともなっている。このようにして、われわれじしんは国家的な一大災厄に見まわれている」

「われわれとしては、条約にたいして誠実でありたい。といって、わが国が一般的貧困におびやかされるのを黙ったまま見ているわけにもゆかない。明らかに必要なのは時である」

「あなたがたは、あまりにもだしぬけにこれらの厖大(ぼうだい)な需要と、貪欲そのもののような西洋との通商とをもってわれわれに襲いかかった。われわれは、あらゆる点で譲歩し、すべての制限を撤廃するように強要されている。つまり、一言でいえば、あなたがたのために、一世紀もかかる仕事を即座になしとげるようにせきたてられている」

「一般消費物資の生糸、国民に欠くべからざる日常の食料品のひとつである油、さらに日常品としてひじょうに必要な木ろうなどが日本人がみずから消費に当てるために購入するのに困難を感じるほど値上がりしている」
「外国貿易は、われわれに必要なわれわれじしんのつくった品物を、少数者を富ますために道具たらしめ、多数の人々にとって高価なものたらしめる」

 外国貿易は儲かるから、商人は物資を外国に売り始めました。その分、循環型社会の受給一致が崩れ物資が不足し、物価が高騰して庶民を苦しめたのです。

 オールコックは市場原理を説き、需要制限は生産への刺激を取り去ることになる、など主張します。そして近代的科学を応用して鉱山や炭鉱などの開発を促進し、それを活用して利益をはかるよう提案しました。すると外国掛閣老首座は次のように述べました。

「いにしえの著述家たちは、金属を人体の骨やたえず再生される血・肉・皮膚の毛にたいするそのさまざまな貢献と比較した − 金属は、決してこの過程をたどらない」

江戸日本人は知っており、自制していたのです。資源は再生されないし、資源を無分別に採掘すればやがて枯渇し、破綻が来ると。

 開国と共に究極の循環型社会は崩れました。農耕民族である日本民族は「分かち合う文化」でしたが、西洋資本主義の「奪い合う文化」に飲み込まれていきます。森羅万象に対して、慈しみや感謝の念をもって接し、「物」を大切にしてきた江戸文明は終わりを告げていきました。

 アメリカ公使タウンゼント・ハリス 安政3年(1856年)来日
「衣食住に関するかぎり完璧にみえるひとつの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な信条が破壊し、ともかくも初めのうちはそれに替えるものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が間違いなく続くだろうことに、愛情にみちた当然の懸念を表明」

 アメリ総領事館通訳ヘンリー・ヒュースケン 安政3年(1856年)来日
「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩はほんとうに進歩なのか?この文明はほんとうにお前のための文明なのか?・・・おお神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならないのである」

 長崎海軍伝習隊長カッテンディーケ 安政6年(1859年)
「私は心の中でどうか今一度ここに来て、この美しい国を見る幸運にめぐりあいたいものだとひそかに希(こいねが)った。しかし同時に私はまた、日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに耐えなかったゆえに心も自然に暗くなった」

 イギリス外交官ローレンス・オリファント 安政5年(1858年)江戸入りしたときの感想
「私の思うところ、ヨーロッパのどの国民より高い教養を持っているこの平和な国民に、なぜ我々の教養や宗教を押し付けなければならないのだ。私は痛恨の念を持って、我々侵略者が、この国と国民にもたらす結果を思わずにいられない。時が経てばわかるだろう」

 人類史上最もユートピアに近かった江戸文明は崩壊をはじめました。あれから百五十余年の月日が流れています。私は日本人として江戸文明に愛おしさを感じ、失われたものの大きさを感じざるを得ないのです。



参考文献
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔 (訳)
 平凡社ライブラリー「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 岩波文庫「ヒュースケン日本日記」青木枝朗(訳)

添付画像
 歌川広重の四ッ谷内藤新宿(PD)
 外国人は馬が「藁のサンダル」を履いていると観察した。日本人は循環の過程を踏まない鉄(蹄鉄)を使わず、循環の過程を経る藁を使用していた。

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