満州事変と朝鮮人



 1930年、満州には60万人の朝鮮人がおり、その多くは貧農層で、漢人小作人となっていました。この頃は軍閥の張学良が満州を統治していましたが、日本の権益を脅かしはじめ国際法違反を含む排日攻撃を行っていました。その中には当時日本国民であった朝鮮人への迫害があり、1928年〜1930年までシナ人と朝鮮人の間に100件を超える紛争があったといいます。
 1931年2月、国民党会議は朝鮮人の満蒙移住厳禁を決議し、「鮮人駆逐令」によって満州から朝鮮人を追放にかかります。行き場を失った朝鮮人長春から北西約20キロにある万宝山に入植しようとしました。ところが吉林省政府の警官隊は朝鮮人農民の退去を繰り返し求め、7月にはついにシナ人農民が大挙して朝鮮人を襲撃しました。(万宝山事件) この事件と日本軍将校が殺害された中村大尉殺害事件が満州事変の直接の引き金となります。
 
 万宝山事件に朝鮮人は怒り、朝鮮半島全域にシナ人への襲撃が始まりました。昭和6年(1931年)7月5日大阪朝日新聞附録『朝鮮朝日』南鮮版
「衝突、破壊、脅迫、傷人、市内の各所に頻発す シナ人街休業の姿 京城の鮮支人衝突事件」
「【京城】(略)朝鮮人およそ二十名がシナ人を殴打(おうだ)負傷せしめさらに同時刻同所附近のシナ商店を襲い窓ガラスを破壊、九時四十分ごろには府内義州通りにおいてもシナ人一名を殴打負傷させ十時には和泉町では朝鮮人およそ60名がシナ人を襲い、同様殴打負傷せしめ同二十分府内シナ人街西小門枝芸学校前で朝鮮人五百、シナ人凡そ二百名が衝突し、各一名宛ての重傷者を出し、また・・・」
「全市に警官隊配置。シナ人続々避難す 京城(ソウル)ますます騒然」

 朝鮮人のすさまじい怒りの様子が伝えられています。
 
 昭和6年(1931年)9月12日大阪朝日新聞附録『朝鮮朝日』南鮮版
「【京城】中村大尉事件に対して鮮内における内地人側の輿論(よろん)はますます硬化しているが朝鮮人側の輿論は果たして内地人側と同一歩調をとっているか・・・(略)しかし、今なお繰り返されている鮮農圧迫事件に対し我が政府ならびに内地人はあまりにも冷淡ではなかったかとの説をなすものがあり・・・」
 朝鮮人が迫害されていることにたいして内地人は本当に怒っているのか?冷たくないか?という論調の記事がながれています。この頃の「弱腰外交」が背景にあり、それとわかる論調です。「日支懸案370件」に対して抗議するだけで何も手をうてない外交「日本政府=幣原外交恃む(たのむ)にたらず」という論調があり、関東軍に期待が集まります。
 
 9月12日同紙
平壌部隊、著しく緊張 異様の風説も飛ぶ」

 朝鮮軍に動きが出ていますね。この6日後、9月18日柳条湖事件満州事変がはじまります。



参考文献
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政
 SAPIO2010.5/26「朝日新聞<南鮮版>の研究」水間正憲
 「歴史読本」2009.9『万宝山事件』戸部良一
 
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 満州の日本の権益を否定する国民党  http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21536066.html
 万宝山事件と中村大尉殺害事件 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21555060.html
 
添付画像
 万宝山事件の衝突現場写真(PD)
 
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 1931 年の京城(ソウル)の映像
 http://www.youtube.com/watch?v=j5GegF6XcgE