九人の乙女はなぜ自決したのか 〜 真岡郵便局の悲劇

なぜ悲劇はおきたのか。

 昭和20年(1945年)8月20日、南樺太の真岡にソ連軍が艦砲射撃を加え、上陸し、民間人でも見つけると射殺する事態となりました。このとき真岡郵便局の交換室で9名の女性交換手が自決をしました。状況を総合すると切羽詰った状況にはなく、他の局員は局外に出たり、防空壕に居たものはソ連兵に銃撃されたり、手榴弾によって5名が死亡していますが、局内にいたものは助かっています。局の窓辺には白旗を掲げており、そのためか、あるいは郵便局を破壊するなという命令が出ていたのか、建物内部にソ連兵が侵入して銃撃するようなことはありませんでした。

 9名が自決した交換室は別棟2階となっており、ここに女性だけ12名がいました。20日朝は高石ミキ主事補を長とする高石班の夜勤明けでした。この高石ミキが最初に青酸カリで自決したのです(※1)。続いて班長代務となる可香谷シゲが青酸カリで自決しました。支えを失った女性交換手は次々と自決していきました。恐怖が完全に支配してしまいパニックになったと考えられます。

 若干24歳の班長だった高石ミキは実は、前日の19日に「彼氏」が南方戦線で戦死したという報を受け取っていました。傷心の状態だったのです。その状態で20日の砲撃、銃撃の恐怖の中、12名の長という重い責任を持つことになってしまったのです。真岡出張所に勤務していた人は「あの日、宿直にあたっていたのが『高石班』でなく、『上野班』であったら、もしかしたら自決の事態は避けられたかもしれない」と述べています。上野班の班長、上野ハナは30歳で経験が違っていました。

 不運だったのはこのほか、女性だけの12名が一室にいたことで、男性が一人もいなかったこと、別棟に隔離状態だったことでしょう。他局からも「男の人がいるでしょう、大丈夫よ。青酸カリなど飲まないのよ」と励まされていますが、男性は通信室におり離れていました。交換室は直接銃弾が飛び込んでくるような位置ではなかったため、通信室では交換室の女子交換手が身の危険に晒されているとは考えておらず、最後に自決した伊藤千枝からの内線によって知らされて初めて「女だけの職場だった」と気づいています。元交換手の桜井千代子さんは「あのとき、男子が一人でもいてくれたら、ひょっとして悲劇は避けられたかもしれない、と残念でならない」と述べています。

 また、この日、上田局長は郵便局に来る途中に銃撃を受け負傷して局にはたどりつけませんでした。局長不在の場合は、庶務主事が局の責任者となりますが、庶務主事は機密書類焼却後に避難してしまっています。局全体をみて指揮をとる人がいなかったということです。これらのことを当事者でないものが批判する資格はありませんが、前出の出張所員は「郵便局から200メートルと離れていない宿舎にいる局長に、幌泊監視哨から『ソ連の軍艦が四、五隻、真岡方面へ向かっている』という知らせが届くと同時に、高石は電話で知らせている。それが午前5時40分、ソ連軍が上陸するまで、約一時間の時間があるのに(上陸開始時刻は午前7時33分ごろ)、局長は職場に来ていない。歩いて四、五分の距離だ」と厳しく指摘しています。

 様々な不運が重なり、九名の乙女の命が失われてしまったと言えます。


※1 高石班長はむしろ若い交換手をなだめたとする説、青酸カリを分け合って年齢の高い順に飲んだとする説もある。


参考文献
 河出文庫「永訣の朝」川嶋康男(著)
 河出書房新社「ダスビダーニャ わが樺太」道下匡子(著)
参考サイト
 WikiPedia「真岡郵便電信局事件」

添付画像
 ソ連軍侵攻以前の真岡町の市街 国書刊行会「目で見る樺太時代」(PD)

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