やはり始まった、沖縄メディアの「日本軍悪玉祭り」

 6月23日(沖縄慰霊の日)が近づきますと、沖縄メディアの「日本軍悪玉祭り」が始まります。立派なメシの種になったものです。



「集団自決」軍命を記録 座間味村の戦争体験記第23号発行
2011年5月24日琉球新報

 【豊見城沖縄戦中の1945年3月26日、座間味村で起きた「集団自決」(強制集団死)の生き残り、宮城恒彦さん(77)=同村出身、豊見城市渡嘉敷在住=が23年間続けてきた沖縄戦体験記発行に一区切りつけた。同村住民の戦争体験を収集し、最終号の第23号を3月に発行。宮城さんは「集団自決」で姉の宮平ハルさん(当時19歳)を失った。「最も悲惨な目に遭うのは住民だ。人を狂気に陥れる戦争を二度と起こしてはいけない」との思いに突き動かされ、33人の証言を刻んできた。
 最終号には、軍命による「集団自決」を明確に示す宮平春子さん(84)の証言を収録した。当時座間味村の助役だった兄、故・宮里盛秀さんが「軍の命令で、潔く玉砕しなさいと言われているから」と言った言葉が記されている。
 宮城さんの姉ハルさんの最期を見た故・宮里美恵子さん(享年85歳)の証言も記録できたことから「一段落ついた」と体験記に終止符を打った。
 宮城さんは戦後、ハルさんを失ったことを悔やみ、自分を責め続けた母親・ウタさん(享年91歳)を前に、体験を語れなかったが、ウタさんの他界後、初めて語った。座間味村史にある想像を絶する体験の多さに衝撃を受けた。中学校で国語教師をしていたため休みを利用し、戦争体験者を訪ね聞き取りを重ねた。
 89年に1号を発行した。多くの住民が語りたがらず、古傷に触れるようでつらかった。「方言で質問すると返してくれた。体験者でないと分からない複雑な思い、惨めさがある」。険しい表情で振り返る。
 体験記は毎回、1500冊発行し座間味村内の小中学校や過去の赴任校などに置いている。「文字も大きく、行間を広げ読みやすく工夫した。平和教育にぜひ活用してほしい」。体験記が“語り部”として受け継がれるよう強く願っている。

琉球新報 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-177440-storytopic-5.html

 本文中では”「集団自決」(強制集団死)”と書いていますが、タイトルでは”「集団自決」軍命”となってしまっています。「自決」というのは自分の意思で命を絶つことですから、”「集団自決」軍命”という日本語はおかしいので、プロパガンダであってももう少し考えたほうが良いでしょう。


>軍命による「集団自決」を明確に示す宮平春子さん(84)の証言

 助役の兄が「玉砕命令」を出したのは間違いない、ということです。当時としては自決というのは尊厳死です。助役は防衛隊長でしたから、戦時には村長より権限があります。軍から指示があれば助役が住民に命令として発します。ですので、住民の多くは軍からの「玉砕指示」があったと思った人は少なくないでしょう。軍の隊長は梅澤隊長です。さて、ここで梅澤隊長から助役にそのような指示があったか?というと証明できるものは何もありません。宮平春子さんが「軍の命令で、潔く玉砕しなさいと言われているから」と言っているのは兄から聞いたとされる言葉であり、梅澤隊長から聞いたわけではありません。宮城初枝さんの証言では「梅澤隊長は命令していない」とあり、助役が「忠魂碑の前に集合するよう」と伝令を命じています。※1 宮平秀幸証言では山城教頭から「玉砕命令は梅澤隊長の命令ではない。昨日(3月25日)の昼過ぎ、村長、三役で決め、郷土防衛隊長(助役の宮里盛秀)の命令として出させた。各自、個人個人の壕を回って、軍の命令だと言って忠魂碑の前の広場に集合させなさいと伝達させたのだ」とあります。

 さて、宮平春子さんに関する証言ですが、手持ちのそれらしいものを取り出しますと、次のようなものがあります。※1

 春子さんの兄?弟?直さん。
「明日は敵が上陸するので家族全員で玉砕するんだ。一緒に座間味の壕に移ろう」

 春子さんの父
「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよと命令があるから、着物を着換えて集合しなさい」

 いづれも軍から命令がきたということは言っていません。

 貴重な証言集ですから、宮城初枝さんの証言や宮平秀幸さんの証言もきっと載っていることでしょう。沖縄メディアも公正な観点で証言を記事にしてくれるでしょう。(絶対無い)



※1 高文研「母の遺したもの」宮城晴美(著) (第二刷 改竄される前のもの)より
※2 PHP「沖縄戦 集団自決の謎と真実」秦郁彦(編)より

添付画像
 座間味島の忠魂碑 http://www.youtube.com/watch?v=v2cDcydrvW0 より

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おまけ
3/6【沖縄の真実】座間味集団自決編[桜H22/5/15] より
http://www.youtube.com/watch?v=HgZmKMHMMBE

昭和63年の夏の話。

宮平秀幸さんの妻、照子さん(S12年10・25生まれ)
− 貞子さん(秀幸の母)が亡くなる前にお母様(貞子)が役場に行って、証言をするためにテープをとってお家にお帰りになったときに、丁度、秀幸さんと照子さんが、秀信さん(長男)の方の自宅に貞子さんがお帰りになったと、その時のことをご記憶だということで、教えてくださいますか。

「長男の秀信さんが、海の道具を準備していたんですよ。ナイロン(網)とか釣り針とか、釣り糸ですね。そこに私も斜め横のほうに子供を抱っこして、立ってましてね。それで横のほうに船に勤めてましたので、じいちゃん(秀幸さんのこと)が帰ってきて後ろのほうにいたんですよ。(フェリーの機関長をしていた)」

「それでばあちゃん(貞子さん)が役場のほうから帰ってきましてね」

− 何時ごろですか?

「午後12時半ぐらいじゃないですかね」

「それで、『まあ疲れて、繰り返し繰り返ししゃべらされてもう疲れた』と言っていたんですよ。『まあしゃべっていい、こっちはしゃべってはいけないと言い、こんなして何回も繰りかえさせられて、ああもう疲れた』と言ってたんですよ」

その時、秀幸さんはどこにいましたか。
「ああ、横に居ましたね」


宮平秀幸さん

「月日ははっきり覚えていませんが、夏でした。兄貴がちょうどトローリング(釣法の一種)の時期で、桟橋に定期船が入港したとき、わし、船づとめですから、兄さんは今朝も鰆とってきてね、昨日からずっと大漁してるよ、いうもんだから、お昼休みにちょっと桟橋おりてですね、兄貴に家に寄ったんですよ。寄ったら兄貴が、どうね、仕事はといったら、もうきつくて・・・大変だよ、その話しているときに、釣り道具準備しているの、そうだ、みな鰆に魚が大きくてね、ぶっきられて何もないと、それで道具作っているんだよ、と言ってたんですよ。で、その話してね、いるうちに、おふくろが帰ってきたんだ」

− 何時ごろですか。

「おふくろが帰ってきたのは、お昼ごろじゃなかったかと思いますがね。帰ってきてね、そしてね、お母さんどこへ行っていたの、と言ったら、『ああ、秀幸、もう疲れて、くたくた』と。何で?どこに行ってきたの?畑の仕事行っているわけないもんね。『そうじゃないよ、役場でのインタビューがね。何がなにやらわからん。さっぱりわからん』と、『戦争のこと話しようとしたらね、ここはやっていい、ここは悪い、ハイ、また進めなさい、また、振り出しに戻してね、やり直しやり直しさせられて、もう疲れてコテンコテンになっている』と」

「どんな話したの?というと、『絶対に軍がね、集団自決は軍の命令だったと、これを言ってくれ』と、言われ、田中村長にね」
「『わからんことはしゃべりません』ということで」

「『もう戦争の話はね、本には書かないはずよ。ここはダメ、ここはダメと言ってね、うちらが集団自決すると言ってマカ(忠魂碑の場所)に行ったこと、そういうの話するんだったら全部アウト?されるんだ』と『ただ、整備中隊の壕に行ったことは、あれからは録音しよった』と、全部消されているよ、と言うもんだから何でこんなことするんだか、どうしても不思議だった」