アメリカは侵略者以外の何者でもなかった 〜 沖縄の戦後

アメリカ軍は善玉で日本軍が悪玉?なんじゃそりゃ。


 昭和20年(1945年)3月26日から始まった大東亜戦争沖縄戦座間味島は集団自決があった悲劇の場所で知られています。生き残った住民は米軍に捕まりますが、負傷者は手当てをするなどしてくれました。

 座間味島 宮城初枝さん。
「私たちを絶えず恐れさせた『米軍に掴まると、女は弄ばれ・・・』という風聞、それが、どこからどうして、まことしやかに伝えられたのか不思議でもあり、またそれを真に受けてきた日本人を、哀れにさえ思えてなりませんでした」

 沖縄戦の映像などでも米軍が住民を助けてくれた、米軍はとっても親切、解放軍と思わせるような印象を持つような映像を見たことがあります。しかし、これは米軍の「手」でしょう。本土でいうと米兵の悪行は検閲によって徹底的に隠され、子供にチョコレートやチューインガムをあげるとても優しい人という演出がなされていたのです。

 「アメリカの世」となった沖縄では非戦闘員も全員捕虜となり、収容所に入れられました。収容所といってもテントやバラックを建て、砂の地面に寝る生活でした。トイレもただ溝が掘ってあるだけ。衛生環境は悪く、マラリアが蔓延し、昭和21年には患者17万1000人、よく昭和22年には15万人。死者は毎年1000人を超え、本島北部の住民は戦死者より戦後のマラリアによる死者のほうが多いくらいです。食糧不足のために草の根やネズミまで食べつくし、栄養失調で次々に死んでいった収容所もあります。

 収容所間の通行は制限され、夜間は外出禁止で、肉親の安否を求めて外に出て射殺されたり、女性が強姦されたりする事件が頻発しました。米兵たちは白人も黒人も女狩りをしていました。畑で芋堀りをしている女たちに襲いかかり3人がかりで拉致して犯したり、夜になると集団で部落を襲ってくることは頻繁でした。部落ではそのたびに女を避難させなければなりませんでした。米兵の暴行を止めようとしたものは射殺されたりしました。

 米兵の横暴に対する抗議にいくと、米将校から「証拠が無い」「そちらに油断があるのだろう」「個人個人の楽しみまで規制できない」といい返される始末で、食糧事情の悪さを訴えると「キミたちはいろいろ言っているが一体戦争に負けたのは誰なのだ」「生きておればそれでいいではないか!!」とピストルを突きつけられました。後に那覇市長となった瀬長亀次郎氏はこれで「米軍の正体は侵略者」であると確信し、反米闘争を決意。「沖縄人民党」を結成します。

 戦後、8年たったころ、米軍は突如、住民の農地を蹂躙し、軍用地の強奪を開始。畑も墓地もトラクターが踏み潰しました。食糧不足の折ですから住民がイモを取り出そうと飛び出ると米兵が威嚇射撃をしてきました。米兵は住民に銃を突きつけ、住民の目の前でビールやジュースを飲み、笑い声をあげながら田畑を潰し、家屋も店も取り壊しました。

 どうみても米軍は非道な侵略者以外の何者でもないでしょう。しかし、本土でもそうですが、沖縄でも米軍の非道な行為はほとんど語られません。語られているのは近年の少女レイプ事件ぐらいでしょう。逆に日本軍が悪玉として語られています。沖縄メディアは毎年6月23日が近づくと異常なまでに日本軍批判になります。沖縄戦末期の米軍が、軍民構わず殺戮しまくったことや鉄の暴風の向こうにある米軍の顔を見ようとしません。
 本土ではGHQの検閲によって米軍の悪行が報道禁止になっていたほか、国民が日本軍に対して不信感を持ち、国民と軍隊の対立構造が出来るよう洗脳プログラムが実施されました。東京裁判のほか、「真相箱」というラジオ番組や「太平洋戦争史」という新聞連載が行われ、日本軍はウソつきで野蛮で愚かで、そのために日本が焦土化したのだという宣伝がされ、学校教育の教材にされました。マスコミはGHQ製記事しか書けなくなりました。沖縄メディアも「アメリカの世」の間は米軍を解放軍扱いしていたといいますから、同じ状況が起こっていたのでしょう。我々は戦後のこうしたカラクリをよく知った上で今、言論空間がどうなっているか、何を言っているかを見分け聞き分けなければなりません。



参考文献
 高文研「母の遺したもの」宮城晴美(著)
 小学館「沖縄論」小林よしのり(著)
 文春文庫「閉ざされた言論空間」江藤淳(著)
添付画像
 琉球政府庁舎 昭和28年(PD)

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