もしかして今年はちょっと大人しい?沖縄メディアの「日本軍悪玉祭り」

 今年の「日本軍悪玉祭り」はちょっと大人しいかも?東日本大震災での自衛隊の活躍が広く知られているからか。「日本軍悪玉祭り」をやると、国民の支持95%の自衛隊の先輩たちを卑しめることになるからか?「軍は住民を守らない」なんていっちゃうとえらいことになりますね。



「集団自決」体験記発刊 証言した宮平さん「兄喜んでいる」と涙
2011年5月30日琉球新報

 【座間味】沖縄戦中に座間味村で起きた「集団自決」(強制集団死)の生存者、宮城恒彦さん(77)=同村出身、豊見城市在住=が発行した同村住民の戦争体験記第23号「お父さんを恨まないでね」がこのほど、座間味村に届き、村内の小中学校や住民に配布された。宮城さんは過去23年間、毎年体験記を発行し続けており第23号が最終号。
 第23号は「集団自決」で亡くなった宮城さんの姉・宮平ハルさん(享年19歳)の最期を見た宮里美恵子さん(享年85歳)と当時・村の助役だった宮里盛秀さんの妹、宮平春子さん(84)の証言がつづられている。
 体験記を受け取った春子さんは「集団自決で死んだ家族と弟の直と盛秀兄さんは、この本が事実に基づいた内容なので、天国で本当に喜んでいることでしょう」と涙を流して喜んだ。
(宮里芳和通信員)

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-177630-storytopic-5.html


 前回取り上げた琉球新報記事(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-177440-storytopic-5.html)では「宮平春子さん(84)の証言を収録した。当時座間味村の助役だった兄、故・宮里盛秀さんが『軍の命令で、潔く玉砕しなさいと言われているから』と言った言葉が記されている」と強調していましたが、今回の記事にはありません。どういう風の吹き回しでしょう。前回記事と異なるところは記事を書いた人の名前が明記されていることです。

 宮城晴美著「母の遺したもの」※1より玉砕命令が出たとされる3月25日の春子さんの行動をPICKUPしてみます。
「一家は盛秀(春子さんの兄、村の助役)を先頭に忠魂碑に向けて出発した。燃え上がる炎と飛んでくる砲弾におびえながら歩いていると、突然数メートル先に照明弾が落下し、あたりが昼のようにパーっと明るくなった。これ以上進むと危険である。しかたなく、来た道を引き返すことにした。ちょうどその時、村長と収入役がそれぞれ家族を連れ、盛秀一家の方に向かってくるところだった。ここで全員忠魂碑に行くことをやめ、農業組合の壕に向かって歩き出した」

 村の助役、宮里盛秀さん一家は忠魂碑前まで行かなかったとなっています。座間味の証言の中には忠魂碑前での体験証言が少なく、引き返した、行かなかった、誰もいなかった、という証言が多いです。忠魂碑前で何があったのか?

 宮平秀幸証言 ※2
「村の幹部たちは、先頭から助役、収入役、村長、校長の順番で忠魂碑に向かっていました。その前には民間人が10人ほど歩いており、私の後ろからも急ぎ足でどこかの家族が14〜15人ついてきていました。忠魂碑の近くの学校の裏手に出るころには、恵達(役場吏員)と初枝は横道に入って役目を果たすために出かけたようで、姿は見えなくなっていました。
 私は三役の後ろについて忠魂碑の前に出ました。そこには老人と子供ばかり80人ぐらいの人が集まっていました。家族ごとあちこちにかたまっています。あたりは煙で人の顔もよくわからないほどでした。私は自分の家族を探しましたが、碑に向かって右手の30メートルほど離れたくぼ地にかたまって座っているのが目にとまりました。
 祖父と母はすぐにわかりましたが、姉の千代の姿が見えません。私は大きな声で『千代姉さーん!』と叫びました。『はい!』と返事が返ってきました。私は千代に、『皆、無事か?』ち訊きました。『皆無事だよ。あんたは大丈夫か?』と返事があったので、『僕は無事だよ』と答えました。母・貞子が『秀幸、こっちへ来なさい』と言いましたので、私は家族のいる方に近寄っていきました」

 宮平証言によると宮里盛秀助役は忠魂碑まで来ています。春子さんの証言では宮里盛秀助役は忠魂碑前にきていません。食い違いが見られます。

 宮平秀幸氏の母・貞子の証言があります。これによると宮平一家は忠魂碑前に行っていない、というのです。同じ家族で忠魂碑に行ったという人と行っていないという人がいる。この謎は前回記事の「おまけ」がヒントになると思います。http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110605/1307266915

 この母・貞子の証言で宮平秀幸氏は公的にもウソつきとされてしまいます。宮平秀幸氏は忠魂碑前に居なかったと。(大江・岩波裁判) ところが忠魂碑前で宮平秀幸氏に会った人がいたのです。宮城初枝さん(宮平秀幸氏の姉)と行動をともにした宮平澄江さん(現 大城澄江さん)です。宮平秀幸氏にも会っているし、秀幸氏の母・貞子さんにも会っていると言っているのです。ところが宮城初枝さん(宮平秀幸氏の姉)の手記にはそのことが一切書かれていません。

 もし宮平秀幸氏の証言が正しいとなると、宮平秀幸氏が証言している忠魂碑前で村長が「軍から自決用の武器弾薬をもらえなかったので解散」という主旨の訓示があったことに信憑性がでてきます。「軍命令」がなかったことの決定打になってしまうのです。これらをどう考えるか。まんべんなく情報を仕入れた上で考えたなら、その考えはどういう結果だろうと尊重されるべきでしょう。しかしながら、情報はある意図で操作されており、宮平秀幸氏、宮平澄江さんの証言はメディアから抹殺されてしまっているのです。

 


※1 高文研「母の遺したもの」宮城晴美(著) (第二刷 改竄される前のもの)より
※2 PHP「沖縄戦 集団自決の謎と真実」秦郁彦(編)より

添付画像
 宮平澄江さんが証言しているところ http://www.youtube.com/watch?v=CoJDFak7PpU より

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2/6【沖縄の真実】座間味集団自決編[桜H22/5/15]
http://www.youtube.com/watch?v=CoJDFak7PpU より

宮平澄江さん(現 大城澄江さん) 大正9年1月8日生まれ

− どこで初枝さん(宮平秀幸氏の姉)とお会いになりましたか。

防空壕がね、近くだったから、一緒に交わって、今日はどうすんの?と言ったら、忠魂碑の前に集まれというから、あっち行ってみようねというから、自分等はあっちいってみんな玉砕すると思ったんですよ。じゃあ、行こうねって言って、おばあたちは近くの壕に入れてね、『あんたたち若いから早く逃げなさい逃げなさい』、おばあたちは鰹節、黒砂糖をくれてね、じゃあ、私逃げて行こうね。
『私ら年寄りはいいから早くにげなさい』。村のすぐ近くだから防空壕。だから帰って山に行ったら初枝さんたちも自分のいとこのつるさん、私、初枝さん、みえさん、なおは、この5名は一緒になって逃げ回って、あとこっちまで(忠魂碑前)まできたんだけど」

− 忠魂碑に来ることになったのはどういう理由ですか。

「みんな呼びかけていたから(忠魂碑前に集まれ)と、壕の中にいるときに。自分等は勘違いしてね、米の配給かねえと思って、農業組合の店があって米はこっちのほうに積んでいたから、これは取りに行きなさいということで、集まったら誰もこない。初枝さんと一緒にきたの。この上に(忠魂碑の上)に防空壕があってね、今言った農業組合の。米をおろしてきて配るんだねえと思って。待っても誰もこない。シーンとしてる。そしたら初枝さんが、待っている間に役場の書類(土地台帳)こっちにあるから、こっちからどんどん出して、飛ぶものもあるしね、待ってもそれも来ない」

− 土地台帳はどこにおきましたか。

「この辺においた。あれ(初枝)役場の方だったから。どこに壕があるか自分でもわからんけれど、命令でここに積んでおこうね。自分等もどうせ死ぬのだから。この村も無くなるはずだからと言って。ひとりひとり行ったり来たりして運んで」

「誰もこない。シーンとして。そうしているうちに秀幸さんたちに会ってね。家族に会ったから、自分らはね、整備中隊の初枝さん呼ぼう、初枝さんの家に整備中隊の団体いたから、もし何処にも行けなかったら、整備中隊の壕に行きなさいと言われたって、こっちにいても誰も来ないから、あっちに行こうかって」

− 秀幸さんの家族で覚えている人は?

「おばあさんと秀幸さんと千代さんは後から来たね。千代さんはおばあ探しにきてた。あとから合流してて。こっちにいたときはちらっと見ただけで、もう逃げる考えでね。自分等は整備中隊の初枝さんの壕に」

− もう一度聞きますが、秀幸さんとお母さんの貞子さん、

「そうそう」

− 千代さんはちらっと見る程度で。

(うなずく)

「会ってまた別れて自分らもね、整備中隊の壕に行こう、あっちは全部何もかもあるから、あっちがいいから、もし万が一のことがあればあっちに行きなさいって言われたんだって。だから行こうとしたら、途中であったら・・・」

− 途中でどんな人に会いましたか。

「子供なんか(・・・不明)、こっちまで横道があるから、横道に出ようとしたら、子供なんか赤い???つけてね、ほんとに正月みたいな格好で、自分らボロボロしてて」