白洲次郎と正子

不思議な夫婦。


 白洲次郎は戦後、終戦連絡中央事務局次長としてGHQと渡り合いGHQ憲法の押し付けに最後まで抵抗した人、通産省立ち上げなどに尽力した人として知られています。奥さんの正子はエッセイストとして有名で、日本の伝統美を追求し続けた”美の狩人”とも称されています。

 次郎も正子も金持ちのお坊ちゃん、お嬢ちゃんでしたが、昭和2年(1927年)の金融恐慌の煽りを受けて、白洲商店は倒産。正子の樺山家も甚大な被害を受けました。次郎はイギリスに留学していましたが、このため帰国。正子はアメリカに留学していましたが、帰国し、その後二人は正子の兄の紹介によって知り合い、両者一目ぼれで周囲には有無を言わせず結婚しました。

 正子(18)は次郎(26)を一目みて(なんて背が高いの、なんて凛々しいの、なんて甘いマスクなの、なんて気品ある物腰なの)と思ったといいます。正子は後にこのときのことを次のように回想しています。

「そりゃあ、その時の次郎さんはかっこよかったですよ。はっきり言って一目ぼれでした。こちらは18の小娘でしょ。外見でまずコロッといってしまいましたね。なんと言っても次郎さんは、180センチの長身で、スーツの似合う、それはもうほれぼれするいい男でしたから」

 次郎は正子にラブレターを書くときは英語で書き、正子も英語で書いて返しました。

Masa : You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon」(正子、君は私にとって霊感の泉であり究極の理想だ ジョン[次郎のこと])

 第三者が読むと読むほうが恥ずかしくなるようなラブレターです。

 次郎の父、白洲文平と正子の父、樺山愛輔はドイツのボンで留学生活を送っていたので、お互い知り合いでしたが、仲が悪く、互いに悪口を言っていました。次郎は樺山愛輔にあうなり「お嬢さんを頂きます」と言います。"頂きたい”ではなく、”頂きます”と言ったのです。正子も「白洲さんと一緒になれなかったら家出します」と半ば脅迫。もうどうにもならない。白洲文平のほうは正子を気に入り、「良縁や、めでたい、めでたい」と喜びました。樺山愛輔も実は次郎が気に入り、晩年まで「白洲はいい男だ」としみじみ言っていたといいます。

 二人の夫婦喧嘩は1度きり。夕食の席でのこと。正子の祖父、樺山資紀(すけのり)は薩摩の示現流の使い手で、海軍大将を勤めた人です。鳥羽・伏見の戦い、戊辰の役、日清戦争という従軍暦があります。次郎は薩長の奴等は東京で散々乱暴働いた。お前さんのお祖父さんだって同じだろう」と言い放ちました。正子の祖父はそういう乱暴ものを取り締まるのに非常に苦労した人だったそうで、正子はカッとなり、言葉より先に次郎の横っ面を思いっきりひっぱたいてしまいました。次郎は鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしていてショックを受けたようです。さすが示現流の孫。一太刀で決まりました。

 仲のよい夫婦かと思えば、結婚してから次郎から正子へプレゼントは一度もありませんでした。外国に行ったときぐらいお土産を持って帰りそうなものですが、それすらもなかったといいます。
 晩年、正子が文芸仲間と遅くまで飲み歩いて、朝帰りしても次郎は「あら、おはよう」と言って、文句など言ったことは一度もないといいますから、不思議な夫婦です。晩年、次郎は夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて、「一緒にいないことだよ」と述べたといいます。

 白洲次郎は昭和60年(1985年)に死去。正子は平成10年(1998年)に死去。二人の墓は兵庫県三田市心月院に仲良く並んで建てられています。



参考文献
 講談社文庫「占領を背負った男」北康利(著)
 河出書房新社白洲次郎」『いまなぜ”白洲次郎”なの』白洲正子
参考サイト
 WikiPedia白洲次郎

添付画像
 次郎と正子 河出書房新社白洲次郎」より

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