白洲次郎は実は弱虫だった?

実は東京空襲が怖かっただけ?


 白洲次郎は戦後、終戦連絡中央事務局次長としてGHQと渡り合いGHQ憲法の押し付けに最後まで抵抗した人、通産省立ち上げなどに尽力した人として知られています。次郎は昭和16年(1941年)日米が開戦すると

「今に見ていろ。東京は数年にして灰燼に帰すだろうよ。ルーズベルトの2000万トン造船計画を絵空事だと笑うやつがいるが、あいつらはきっとやってみせるだろう。しかも今の造船所をフル回転してではなくまったく新しい工夫によってそれを実現するんだ。日本の諜報機関はなってねえ!机上の研究ばかりで、生きている米国人をぜんぜん知らない。あんなやつらのいうことなんか当てになるか!」

 こういって東京空襲を予言し、食糧不足も予言しました。そして東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家(武相荘)に疎開しました。これは白洲次郎の先見の明があった話として語られていますが、どうも眉唾です。武相荘を購入したのは昭和15年(1940年)ですから、このときは食糧不足は予見できても日米開戦および昭和20年(1945年)3月のような大空襲を軍事的観点含めて予見するのは無理があります。次郎が実際、武相荘に移ったのは昭和17年4月のドーリットル空襲の後です。このときも軍事的観点で昭和20年のような大空襲の予見は難しい。日米の軍事専門家は互いに大艦隊を送るのは困難と見ていました。

 奥さんの白洲正子の回想。
「昭和15年になると、次郎さんは突然会社を辞めて、『これから戦争になる。戦争になれば食糧がなくなるから、田舎に引っ越して農業をやろう』と言い出して・・・」「でも食糧がなくなるから田舎に行こうというのは本当だろうけど、実は空襲が怖かったからというのが本音なんですよ。本当に弱虫でしたから」。

 夫人が「弱虫」と言っているように性格的に最悪のケースに倒れることを想定した言動のように思います。父の白洲商店が倒産したときのことが頭にあったのかもしれません。日本が最悪、敗戦、焦土化することに備えたのでしょう。不幸にも日本は最悪のケースに倒れてしまいました。

 次郎の「弱虫」談はほかにもあり、次郎がドイツに出張に行ったとき、正子を連れて行ったことが在ります。このとき正子が子宮外妊娠になり卵管が破裂し、見知らぬ土地で生死の間を彷徨うことがありました。次郎はこのとき、毎晩浴びるほど酒を飲んで逃げていたといいます。また、正子夫人の回想によると、子供を叱ることがなかったといいます。叱りたいときは正子夫人に「こう言ってくれ」と押し付けたといいます。悪者になりたくなかったのです。意外な次郎の一面です。



参考文献
 講談社文庫「占領を背負った男」北康利(著)
 河出書房新社白洲次郎」『いまなぜ”白洲次郎”なの』白洲正子
参考サイト
 WikiPedia白洲次郎

添付画像
 次郎と正子の結婚式のときの写真 河出書房新社白洲次郎」より

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