日本のほっぺたをひっぱたいた排日移民法

日米戦争の遠因は排日移民法

日本のほっぺたをひっぱたいた排日移民法

 大正13年(1924年)、米国で絶対的排日移民法が成立します。これ以来、米国は日本との外交交渉において強硬姿勢をとり続けています。


1906年明治39年) 日本人の学童は米国人とは隔離
1907年(明治40年) サンフランシスコで反日暴動
1908年(明治41年) 日米紳士協定により一切の新規労働移民を日本は自粛させられる
1913年(大正2年)  カリフォルニア州で日本人移民の土地所有禁止
1920年大正8年)  カリフォルニア州排日土地法で日本人移民の子供も土地所有を禁止
1922年(大正11年) 米国最高裁判所で日本人を帰化不能外国人と判断
1924年大正13年) 連邦法で排日移民法が成立


「日本はあたかも突然、何の前触れもなく、親友に頬を打たれたように感じた」ノンフィクション作家、ジョン・トーランド(大日本帝国の興亡)

 昭和天皇は戦後の回想の中で戦争の遠因として以下のように述べています。
「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還付を強いられたこと亦然りである。
 かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」

 欧米人の有色人種の差別意識は相当強いもので、例えば、米への日本人移民は「写真結婚」ということを行っていました。写真、履歴書を故郷の仲介者に渡して、文通だけで交際し、入籍して渡米するというものです。こういう文化の違いも奇異の目で見られて攻撃材料にされたのです。

 ただ排日運動が起こった当初、日露戦争のときに日本を支援したセオドア・ルーズベルト大統領は排日は日米関係を危うくするものと認識しており、息子宛の手紙で「余は日本の問題(排日)では痛く悩んでいる。カリフォルニア、特にサンフランシスコの大馬鹿どもは向こう見ずに日本人を侮辱しているが、戦争となった暁には、その結果に対して責任を取るのは国民全体なのである」と書いています。そして議会の演説で注意を促し、これ以上、日本人への迫害が続くなら、合衆国軍隊の出動も辞さずとまで警告しました。こうして1908年の日米紳士協定が結ばれます。
 1913年になると再び排日が噴出し、1919年のベルサイユ会議で日本が人種平等を提唱したため、排日運動が再燃化します。移民法案が着々と進められ、日本は厳重に抗議します。日本は移民の受け入れ云々ではなく、差別的扱いは日本国民を憤慨させるもので両国の友好のためにならない、と主張しています。

 移民法案が上院下院を通過すると日本の反米世論が沸騰しました。日本のマスコミは連名で「排日移民法の成立は内容において人道に背き正義に反するのみでなく、日米両国の伝統的信誼(しんぎ 信用と道義)を無視したる暴挙である・・・」と抗議しました。あちこちで集会が開かれます。そして「米国民に訴ふ」「日本同胞国民に与ふ」と遺書を残し割腹自殺を遂げる人まで出たのです。両国国技館での集会は3万人が集まったといいますから、先月のAPEC4000人デモなど比ではなく、世論沸騰状態だったということです。

 ここまでの話だったのか、とちょっと驚きます。おそらくこれも戦後は「日本悪」を刷り込むため言論空間から遠ざけられてきた話なのでしょう。



参考文献
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 文春文庫「昭和天皇独白録」
 「大東亜戦争への道」中村粲
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編

添付画像
 1942年4月移動させられるカリフォルニアの日系のアメリカ人の子供たち(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。