ソ連からの移民 〜 南樺太

南樺太ソ連から移民が入ってきた頃。

 

 昭和20年(1945年)8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告し、南樺太に攻め込んで占領しました。日本人居留民は引揚げ船で本土へ引揚げていきましたが、8月23日にソ連からの禁止が通達されました。日本人に樺太の復興と経営をさせておいて、ソ連からの移民に引き継がせるためです。日本人がいなくなっては困るのです。

 ソ連からやってきた移民の中には、底のない靴を履いたものや、乞食のような身なりで手荷物を持たないものがおり、ウクライナから来たというものや東洋系らしい人もいたといいます。これらの移民は当初、空き家になっているところが割り当てられましたが、そのうち住宅が不足し、半強制的に日本人に対して部屋貸しするよう言われました。断ると出て行けといわれます。いつの間にか住人がソ連人に変わったというところもあったので、家ごと明け渡しを強要された例もあったことでしょう。

 作家の道下匡子さん一家は住むところがなくて途方にくれているソ連人女性移民二人に自宅の一室を貸しています。なんでも日本のお風呂には感心し、喜んで入ったといいます。多くの日本人は「ソ連人との同居は困る」とぼやいていたそうです。

 まったく習慣の異なる両民族が樺太に同居しているのですから、仲良くやっていてもトラブルがおきます。あるとき、水産関係の物資配給事務所で日本人労務者が自分がもっていた5ルーブル紙幣を一枚、滅茶苦茶に破ってストーブに投入して焼いてしまったことがありました。これを見たソ連労務者は血相を変えて、紙幣を破る行為はソ連刑罰法に違反し、懲役に処せられることになっていると騒ぎ出したのです。実は5ルーブル紙幣にはレーニンの顔が印刷されており、粗末に扱うと共産主義政治に反対するものとして罰せられるのでした。ソ連人は紙幣を纏めるときもレーニンの顔が逆さにならないように、時間をかけて、丁寧に揃えていました。

 学校も日ソ共用となり、廊下を仕切ってくぐり戸をつけたという学校があります。この仕切りを挟んで日ソの子供等が戦争ごっこを始めたりするので、ソ連人教師が日本人教師に苦情を言うことがありました。ロシア語でまくしたてられてもサッパリわからないので、「ポニマイ?(わかったか?)」といわれても「ニェ、ポニマイ」と適当に返したといいます。

 ソ連にとって日本人が有用だったのは引継ぎが終わるまででした。鉄道運営では当初、ソ連人は運営の仕方や職員の扱いの仕方を会得するまで、日本人に甘言を持って機嫌をとって教えを受けていましたが、やがてソ連人だけでも運営できる自信がついてくると、日本側首脳が煙たくなり、何かと因縁をつけ、スパイ容疑などでシベリアや樺太内のラーゲル(収容所)に連行してしまいました。

 昭和21年(1946年)9月ごろから引揚げの話が出てくるようになり、12月から日本人は引揚げを開始しました。ほとんどの日本人は引揚げましたが、1000人ほどはなんらかの事情で残留し、長い年月の間、鬼籍に入った人を除くと平成13年(2001年)には400人ほどになっているといいます。



参考文献
 河出書房新社「ダスビダーニャ わが樺太」道下匡子(著)
 文芸社樺太回想録」太田勝三(著)
添付画像
 豊原市制施行記念祝賀行列  国書刊行会「望郷 樺太」(PD)

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