また閔妃殺害を日本人の仕業であると捏造

NHKやテレ朝が良く使う捏造をここでも使った。


 1885年10月、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃(ミンビ、びんぴ)が殺害されました。乙未事変(いつびじへん)といいます。
 
梅田正巳著「近代日本の戦争」 P84


 下関条約の調印から半年がたった1985年10月、その前月に井上馨に代わり朝鮮公使となってソウルに入った退役中将・三浦梧楼が指揮をとり、早朝、日本軍守備隊と民間の壮士たちが朝鮮王宮に乱入、王妃・明成皇后を惨殺します。政治の実権をにぎる皇后の一族がロシアに接近していたのを断ち切り、日本軍の駐兵を引き続き確保するため、参謀本部が密かに立案、政府も黙認して決行した。近代国家としての恥も外聞もかなぐり捨てた恐るべき蛮行でした(詳細は金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年、高文研、参照)。

 このあたりはNHKの番組「坂之上の雲」で捏造シナリオがあったので堂々と捏造歴史を語ることができるのでしょう。テレ朝でも捏造番組を作っていました。

>日本軍守備隊と民間の壮士たちが朝鮮王宮に乱入

 うまく「日本」だけ印象づけるように「民間の壮士」と書いてごまかしていますが、禹範善率いる朝鮮の訓練隊です。三国干渉に日本が屈服すると閔妃とロシアとが結託して親日政権を倒し、親露派で朝鮮を支配しようとしていました。訓練隊は「反閔妃決起」の志を日本人志士達と通じて接近し、日韓有志の連合ができたのです。朝鮮政府が訓練隊の解散、武装解除を通告され、三浦梧楼が指揮して訓練隊と日韓有志が大院君を擁して王宮に入り混乱の中、閔妃が殺害されました。※1


参謀本部が密かに立案、政府も黙認して決行

 『朝鮮王妃殺害と日本人』を参考にしていると思われますが、はて、こんな話は聞いたことがありません。
 WikiPediaによると「実際の暗殺の真の首謀者、実行者は誰であったかについては、日韓外交資料、梅泉野録、アジア歴史資料センターによる公文書、ロシア参謀本部中佐の「朝鮮旅行記」による記述の検討がなされているが、真相はいまだに明確ではない」となっており、「殺害現場にいた純宗の言で『乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇、禹範善』となっているだけでなく、『禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ』と自ら犯人であることを漏らしている」とあります。

 Wikiには以下のような記述もありますが、閔妃を連れ去ったり殺害したところを見ているわけではありません。
 Seredin-Sabatinは以下のように記録している:「王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。…複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。…私は…日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りた…また、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ? 答えろ!』と繰り返し聞いてきた。…私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった」

 殺害現場にいた純宗(閔妃の息子、後大韓帝国皇帝)の証言と禹範善の自白からいって禹範善が犯人といってほぼ間違いないでしょう。

 高宗も「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と証言しています。(1906年統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))

 まったく、こういう史料を無視して日本人を犯人だと決め付けるのですから、酷い話です。ちなみに梅田氏は閔妃を「明成皇后」と書いていますが、これは諡号(しごう)と言って高貴な人に死後おくる美称です。事件の黒幕と見られる大院君は閔妃を死後平民に格下げしましたが、特命全権公使井上馨の尽力によって贈り皇族に戻しています。韓国人学者はこのことを知らないそうで、朝鮮総督府が明成皇后という称号を奪って閔妃と呼んで卑しめたと思っているのだそうです。梅田氏は無知な韓国人学者の書籍を読んでいるのではないでしょうか。※2



※1 展転社大東亜戦争への道」中村 粲著 を参考
※2 オークラ出版反日マスコミの真実2010」『やって来る閔妃ウェーブを迎撃せよ』若杉大 を参考


添付画像
 明成皇后 閔氏(PD)

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