「ひかり」「のぞみ」は朝鮮半島から


 李朝時代の朝鮮半島の交通といえば、道路らしい道路はなく、ソウル内では「カゴ」であり、地方では小型馬の朝鮮馬のみで荷車さえありませんでした。橋梁も永久的なものは希で渡し舟や丸木で渡河していました。
 
 1899年、日本資本の京仁鉄道合資会社が漢江西岸の鷺梁津(ノリャンジン)〜済物浦(さいもっぽ)の鉄道を開通させました。これは朝鮮が鉄道施設権を米国人に売り渡していたものを買い取ったものです。その後、京釜線が全通し、日露戦争時には軍事輸送を目的とした京義線が全通。1910年日韓合邦を機に鉄道の所管は朝鮮総督府の鉄道局に移管されます。これら(京仁、京釜、馬山浦、京義の4線)にかかった費用は6600万円ですべて日本国民の血税です。1906年の大韓帝国の税、印紙税収入は全部で784万円という時代です。この当時の1円が10万円に相当するとすれば6.6兆円という金額になります。
 
 この後、4線からあがる運賃も含めて公債その他の資金を調達しながら、湖南線(1914年)、京元線(1914年)、咸鏡線((1928年)、図們線(1933年)、満浦線(1939年)、平元線(1941年)が敷かれます。なお、朝鮮総督府は私鉄も買収しました。

 昭和7年(1932年)の満州国建国により、日本から朝鮮半島経由での満州への移動がさらに盛んになると、各線列車の増発と増設、スピードアップが一段と進みます。急行旅客列車は「ひかり」「のぞみ」と命名されました。新幹線の名称のルーツは朝鮮半島にあったのですね。
 
 1910年に年20万という乗客数は1944年(昭和19年)には1億637万人になっています。貨物輸送量は90万トンから3120万トンに膨れ上がっています。
 
 昭和15年に弾丸列車構想というのがあり、北九州から壱岐対馬を経て釜山まで海底トンネルでわたり、満州の鉄道に乗り入れ、新京、北京に至るという壮大な構想もありました。

 朝鮮半島の鉄道はこうした黎明期から日本国民の血税と関係者の苦労によって築かれ、壮大なスケールの夢と構想もありました。しかしこの歴史は堅く閉ざされ語られることはありません。韓国の歴史教科書には「電気と鉄道などの事業は朝鮮総督府や日本の大企業がこれをにぎり、彼らの利益を増大させることに利用した」と大嘘が書かれているそうです。



参考文献
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 SAPIO2010.5.26
   「『東京発満州行』大東亜共栄圏を突っ走る幻の『弾丸列車計画を追う』SAPIO編集部
   「世界を駆けた!大日本帝国『鉄路の栄光』SAPIO編集部

添付画像
 京釜線(京城-釜山)鉄道開業式典(PD)

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