琉球新報の仰天記事
琉球新報の記事をたまたま見て驚きました。いったい何がしたいの?
東村有銘で住民2人虐殺 日本兵、米兵を銃殺後 沖縄戦さなかの1945年4月、東村有銘で日本兵が住民2人を殺害したとみられる虐殺事件があったことが12日、明らかになった。当時、県立第三中学校から独立混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊)に動員され、撤退の途中で事件を目撃した大城晃さん(81)=西原町=が12日、名護市教育委員会が主催し、本島北部で行われた平和体験学習で証言した。大城さんが事件を公の場で発言するのは初めて。 大城さんによると、45年4月26日ごろ、米軍の斥候兵3人が有銘集落に入り、日本兵と銃撃戦になった。米兵2人が銃で撃たれて死亡。米兵1人は逃げる途中、海岸沿いの避難小屋で生活していた10代半ばの中南部出身とみられる避難民の男性2人を人質に取った。 日本兵は、2人を連れて海岸を南へ逃げる米兵を追い、泳いで沖合に回り込んで射殺。さらに、2人の避難民を山まで追って殺害したとみられる。同日、大城さんは2人の遺体が日本兵によって山から下ろされるのを目撃した。 石原昌家沖縄国際大名誉教授は「初めて聞く事件だ。米軍上陸直後で緊迫した状況が、追いかけてまで殺した行為に表れている。日本軍で『方言を使う者は処分する』との方針が既に出ていた時期で、その流れの中で起こった事件だろう」と話した。(宮城隆尋) ◆遺体け飛ばす日本兵 残虐行為を批判 <用語>国頭支隊(宇土部隊) |
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163433-storytopic-153.html
日本兵が海岸線を逃げる米兵を追って泳いで沖合いに回りこんで射殺したとなっていますが、地理的にどう泳いで回り込んだのでしょう。地図を見てもよくわかりません。
さらによく読むと大城晃さんは有銘に戻る途中、人質の避難民2人を連れた米兵に遭遇しており、その前の出来事は見ていません。それからその後、避難民が日本兵によって虐殺されたと言っていますが、これも見ていません。普通に考えると米兵を射殺した時点で人質は解放され、同胞に救われるわけですから、山から降ろされる二人の避難民の遺体というのも不自然で避難民が山へ逃げたことになります。なぜ逃げたのか?可能性としては米兵が避難民を脅して道案内させたほか、ハワイの二世やサイパンで訓練した原住民スパイの可能性も十分あります。濡れ衣かもしれないし、本当かもしれない。(スパイがいたというのは本当の話※1) しかし、記事では「日本兵による虐殺」として、あたかも見たように断じて報じています。
さらっと読んでしまうと「そうかあ」と思ってしまいます。恐ろしい沖縄メディアの情報コントロールを感じます。沖縄の「おばあ」が言っていた言葉を思い出します。
沖縄のメディアについて
「メディアという責任を果たしていませんね。自分のやりたいこと、革命へ向けた方向しかみていない。みんなのための、住民、国民のことを聞いてもいないし、自分のやりたいほうだい。こんなもんが沖縄のメディアですよ」
http://www.youtube.com/watch?v=dAeFDCQ8uHA より
※1 「沖縄戦〔集団自決〕の謎と真実」秦郁彦編 『沖縄戦における軍官民関係』原剛より北海タイムスの記事「七師団戦記〜ああ沖縄」の記録にもとづく。
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