マスコミが書かないニ・ニ六事件

 マスコミはプレスコード※1にかかることは書きません。


2・26事件:事件後に銃殺刑…県出身の対馬中尉 弘前の96歳妹、思い切々 /青森
 ◇純真な兄、信じて

 旧陸軍将校らが政府要人らを襲撃した1936年の「2・26事件」。県出身の対馬勝雄中尉(当時27歳)も参画し、事件後に銃殺刑となった。対馬中尉の妹、波多江たまさん(96)=弘前市茂森新町=が健在で、「忘れたい気持ちもあるが、雪が降ると事件のことを思い出す」という。事件から間もなく75年となる現在も記憶は鮮明で、兄への思いを語ってくれた。【塚本弘毅】

 対馬中尉は田舎館村で生まれ、間もなく両親と青森市へ移る。旧制青森中学1年で「学費がかからない」との理由から陸軍幼年学校へ進み、陸軍士官学校を卒業した。

 波多江さんは、今も事件に参加した兄の「純真な気持ち」を信じている。「父親は青森へ転居する前は農家だったし、貧乏な農家のことは身に染みていたのではないか」。部下には農家の出身が多く、娘が売られるなどの農家の厳しい実態を知って、「このままではいけない」と思い立ったのではと心情をくむ。「非常に正義感が強く、とにかく曲がったことが嫌いで真っすぐな性格の人でしたから」

 事件の発生を新聞で知った時、兄の性格から参加しているのではと胸騒ぎがし、不安は的中した。36年7月7日に両親が青森から上京し、7月12日に死刑が執行される前日まで家族らが面会した。生まれて間もない対馬中尉の長男も一緒だった。対馬中尉に抱かれた長男は別れる時、父親の羽織のひもを離さなかったという。

 「処刑の連絡を受けて行くと遺体はまだ温かく、銃殺されたためか額には厚く包帯が巻かれていた。すぐ火葬された」。遺骨を青森へ持って帰る時、列車内では憲兵特高警察官らが張り付いていた。遺言で「骨は浜辺に埋めてくれ」とあり、父親が自宅近くの海岸から運んできた砂と骨を混ぜ込んだという。

 波多江さんら遺族が中心になって事件から55年を経た91年、対馬中尉の本当の姿を伝えたいと「邦刀(ほうとう)遺文」という対馬中尉の記録集を自費出版した。その中の「はじめに」で、波多江さんらは記した。「私たちは刑死した兄を美化するつもりは毛頭ありません。只(ただ)、兄の本当の心が判(わか)って下されば何よりも有難いと思います」

毎日新聞 2011年2月12日 地方版

http://mainichi.jp/area/aomori/news/20110212ddlk02040026000c.html?inb=yt

 対馬中尉は栗原中尉が指揮する首相官邸襲撃に加わっています。※2

 対馬中尉に死刑判決が下された後、奥さんの千代子さんは産後の肥立ちがよくなく、面会にこれませんでしたが、ある日、長男、好彦ちゃんが祖母に抱かれて面会にやってきました。対馬中尉は、その時の嬉しさを歌に残しています。

 来たか坊やよ悧巧な坊や
 たった一つで母さんのつかひに
  はるばる汽車の旅
   おお、お手柄お手柄

 息子が成長して読むことを期待した「好彦に与ふる書」というのがあります。プレスコードにかかるのでマスコミは報じることはできないでしょう。正しく歴史を見るために記しておきます。

「父は尊王の使命を尽し終わらんとす 父は永久に不滅なり・・・尊王大義は深遠測るべからず 皇国は永遠に世界統一に向ひ邁進(まいしん)し 天皇の神聖は太陽の上るが如く年々無辺に光被せんとす 際限なしされば汝は自を慮(おもんばか)りて目標を制限せよ 自愛自重せよ 汝は父の延長なるぞ」


※1 GHQによる言論規制。マスコミはいまだに引きずっている。詳しくは http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/24628916.html
※2 対馬中尉については河出書房新社「2・26事件」太平洋戦争研究会(編)を参考に記載いたしました。

添付画像
 永田町を占拠した決起軍(PD)

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