遠山の金さんは経済通だった

いよ!金さん!




 「北町奉行・遠山左衛門尉様、ご出座〜」ドンドンドンと太鼓がなり、お奉行がお白州に登場する「遠山の金さん」のドラマは有名でしょう。

 北町奉行所は呉服橋内にあり、南町奉行所数寄屋橋内にありました。位置関係で北と南と呼んでいたわけで正式名称ではありません。常盤橋内に中町奉行所というのがあった時期もあります。北と南は1ヶ月交代の月番制でした。ドラマの金さんや大岡越前を見ると町奉行は司法、警察というイメージですが、行政も兼ねていますから、お奉行の仕事は大変な激務だったといいます。

 江戸時代は元禄時代の頃から、市場経済が発達し、武士の時代というより町人の時代でした。ドラマ暴れん坊将軍でおなじみの徳川吉宗(在位:享保元年(1716年) - 延享2年(1745年))が米価維持、物価抑制、倹約などを通じて幕府財政の再建を行いましたが、あまり効果がなく、これは貨幣経済や成長著しい商工業の存在を前提にしていなかったからという見方があります。

 幕府は田沼意次が活躍した明和から天明期(1764年〜1789年)に資金運用に随分熱心で、幕府資産を有力町人に貸し付けて利息を得るということを行っています。幕府は当初、年利10%と抵当を要求しましたが、市中金利と大きくかけ離れていたため、町人から「それでは借手がいない」と反発を受け、抵当なし、としています。もはや幕府は市場に従うしかなかったわけです。その後、幕府は市場に従わなければ政策はうまくいかないと学習していっています。

 さて、遠山の金さん(遠山 景元)は北町奉行でしたが、老中・水野忠邦に疎まれて大目付に配転させられています。水野忠邦天保の改革で「問屋株仲間」を廃止にしていました。「問屋株仲間」というのは一定以上の規模で商売をするときは"株"を買わなければならないというもので、相撲で言う"親方"の株をイメージすればいいでしょう。もともと悪辣なものが商売をして市場を混乱させないようにするためのものです。しかし、水野忠邦は物価の高騰は「問屋株仲間」の独占が理由だとして廃止したのです。

 一方、遠山の金さんは水野忠邦失脚後、弘化2年(1845年)南町奉行に返り咲き、「問屋株仲間」の再興を建議しています。翌年、洪水や江戸の大火が重なり、社会不安が増大しました。そこで元南町奉行で寄合(無役の旗本)詰めの筒井紀伊守正憲が、老中阿部伊勢守正弘に遠山の金さん同様の提案を行いました。これがきっかけで阿部伊勢守が遠山の金さんに「問屋株仲間」の再興を命じました。金さんは勘定奉行などの関係機関との調整、折衝を行い、関係法令や解釈を細かく調査し、与力、同心といったスタッフとともに下準備、原案を作りました。そして嘉永4年(1851年)に諸問屋再興を行ったのです。

 金さんや筒井紀伊守が主張しているのは「バラマキ政策よりも諸問屋を復活させて経済活性化」するというものであり、零細企業も諸問屋から借りた商品を販売し、借金返済や生活に当てることができるようになります。また「株」は信用がありますから、信用取引も活発になります。幕府と業界団体との関係を復活させて、物価対策などの指示、監督も行い易くなるというものです。

 金さんの市場を重視した政策は一定の成功を収めることになりました。名奉行・遠山の金さんは江戸の町人に人気があり、江戸の芝居小屋で「遠山の金さん」ものが上演されるほどでしたが、こうした経済官僚としても実力を発揮していたのでした。



参考文献
 日経プレミアシリーズ「江戸のお金の物語」鈴木浩三(著)
 双葉文庫「時代小説 江戸事典」山本眞吾(著)

添付画像
 東映京都撮影所にある、お白州のセット (PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。


遠山の金さん捕物帳 OP
http://www.youtube.com/watch?v=bzrn4jSMxxI