ケマル・パシャと日本人

明治天皇を崇敬したケマル・アタチュルク


 ケマル・パシャ(アタチュルク)(※1)は「新生トルコの父」とよばれ、トルコ共和国を建国し、初代大統領となった人人です。第一次世界大戦のとき、オスマン帝国はドイツ側に属しており、ケマル・パシャは軍を指揮し、ダーダネルス海峡の強行突破を図ろうとした英仏連合軍の上陸部隊を撃退し、その勇名は内外に轟きました。

 大戦後、ケマル・パシャ戦勝国によるオスマン帝国分割工作に抵抗し、国民軍を組織し、大正8年(1919年)、臨時国民議会を召集します。翌年にはアンカラに大国民議会を召集し、占領軍の下にあるイスタンブール政府を非合法なものとして反旗を翻しました。

 ケマル・パシャの最大の敵はギリシャ軍で、ギリシャ軍はアンカラを目指して進撃してきました。大正10年(1921年)1月から4月にかけてケマル・パシャ軍はアンカラ西方約200キロのイノニュにおいてギリシャ軍と二度にわたり大会戦し、撃退しました。さらに7月にギリシャ軍が大攻勢をしかけてくると8月、サカリア河の戦いでギリシャ軍を打ち破り、翌年には「前進あるのみ。目標は地中海」ギリシャ軍に徹底的な攻撃を加え、決定的な勝利を収めました。これには連合国側も無視できなくなり、ローザンヌ条約を結んで講和を行いました。

 このケマル・パシャ軍に日本から武器弾薬が贈られたといわれています。浄土真宗西本願寺第二十二世宗主大谷光瑞が関わったとされています。大谷は明治33年(1900年)にトルコに訪れており、その後、中央アジアの仏跡探検を行っています。トルコ革命がおきると大谷は側近の上村辰巳をトルコに派遣し、上村は大正9年(1920年)にケマル・パシャに面会しました。そこでケマル・パシャ軍が各方面から武器援助を求めていることを知り、日本に帰国して大谷と相談し、日本政府要人に働きかけ、歩兵銃1万挺、重機関銃500挺、弾丸十数万発を都合つけました。大正10年(1921年)6月30日、武器を載せた貨物船は横浜を発ち、25日かけてメルシン港に入り、その5日後にアンカラに到着しました。トルコの命運をかけたサカリア河の戦いに間に合ったのです。

 この武器を贈った話はトルコ側の資料が見られないため、創作であるという見方もあるようですが、戦前からトルコ大使館に勤務していた塩尻彦一氏がこの話を語っており、やがて裏付ける資料が出てくるかもしれません。

 熱血軍人、橋本欣五郎はトルコの日本大使館駐在武官として約3年勤務し、ケマル・パシャに心酔しています。ケマル・パシャの強力なリーダーシップ、革新的専制政治に惹かれていきました。そして日本に帰国すると「桜会」を結成し、国家革新運動を遂行しようとしています。(三月事件、十月事件)

 トルコで活躍した日本人というと山田寅次郎が有名ですが、ケマル・パシャは士官の頃、山田寅次郎から日本語を教えてもらっています。トルコ革命後の大正12年(1923年)、寅次郎はトルコに行き、共和国記念祭に出席し、ケマル・パシャに再会しました。
 寅次郎は日土貿易協会通じて日本とトルコの親善交流に尽力し、昭和3年(1928年)にはトルコ軍艦・エルトゥールル号の遭難将士の追悼祭を和歌山県大島村の樫野崎でトルコ大使を招いて開催しました。翌年には追悼碑が完成しました。さらに昭和天皇が和歌山巡幸の際にわざわざ樫野崎を訪れ、碑前に挙手、会釈したのです。これを聞いたケマル・パシャは感激し、トルコの手でも弔魂碑を建てることにし、昭和12年(1937年)6月3日、昭和天皇が樫野崎に行幸された吉日に碑の除幕式が行われました。

 ケマル・パシャは国造りの規範を日本に求めたといい、彼は執務室に明治天皇の遺影を飾り、崇敬の念を表していたといいます。


※1「パシャ」は高官、高級軍人に与えられる称号。「アタチュルク」は父なるトルコ人という意。


参考文献
 現代書館「明治の快男児トルコへ跳ぶ」山田邦紀(著)
 中公新書イスタンブールを愛した人々」松谷浩尚(著)
 藤原書店 別冊環14「トルコとは何か」『日本・トルコ関係小史』三沢伸生

添付画像
 初代大統領のケマル・アタテュルク(PD)

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