日本人を救出せよ!トルコ航空機決死のフライト

エルトゥールル号事件が結んだ架け橋。

 昭和60年(1985年)3月17日、イラン・イラク戦争で、イラクフセイン大統領は48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は無差別に攻撃すると突然通告しました。世界中がパニックになり、どの国もイランに取り残された国民の救出に全力を注ぎました。日本はこの頃、戦争をうけてテヘランへの直行便はありませんでしたが、日本航空が救援機を飛ばすことになりました。ところが、組合がこれに待ったをかけ、飛ばすことができなくなったのです。

 テヘランソ連のエアロフロート機は自国民を優先し、日本人の搭乗はすべて拒否。オーストリア航空2機とエールフランス機、フルトハンザ機で40余名の日本人が脱出しましたが、なお200人以上日本人が取り残されました。

 伊藤忠商事の森永堯(たかし)氏はトルコのオザル首相と親しく、オザル首相に電話を入れます。

トルコ人を優先して救出するのは当然ですが、どうか、日本人をトルコ人と同じように扱ってくださいませんか。今日本が頼れる国はトルコしかありません」

 トルコに援助を求めたのです。しかし、トルコ人も600名も取り残されていたのです。オザル首相からは次のような返事がきました。

「オーケーだ。すべてアレンジするよ」「われわれは日本人に恩返しをしなければいけないからね」

 オザル首相の指示を受けたトルコ航空は救援のパイロットを募ったところ、なんとその場にいた全員のパイロットが手を挙げました。

 タイム・リミットは19日午後8時20分。トルコ航空の一番機は午後3時にメヘラバードに到着。198名の日本人を乗せて午後5時10分に離陸しました。二番機は17名の日本人を乗せ、午後7時30分にメヘラバードを離陸し、イスタンブールに到着したのは午後8時20分でした。ギリギリのところで日本人は救われました。

 残されたトルコ人たちはトルコ大使館が用意した車に分乗し、陸路でイランを脱出し、トルコへ向かいました。このことでトルコ政府に文句を言ったトルコ人は一人もいなかったといいます。

 この頃、なぜトルコが自国民より日本人を優先して救出したのか、日本政府も日本のマスコミもわからなかったといいます。駐日トルコ大使はその理由を短いコメントで表しました。

エルトゥールル号の借りを返しただけです」

 明治23年(1890年)9月16日、トルコの軍艦エルトゥールル号和歌山県大島樫野先付近で台風のため座礁し、機関が爆発して約500名の乗組員が死亡する事件があり、日本は生存者を治療、看護し、イスタンブールまで送り届けたことがありましたが、トルコでは教科書にも載っている話で誰もが知っている歴史的事件だったのです。

 平成11年(1999年)8月17日に発生したトルコ北西部大地震ではテヘランで助けられた商社マンや銀行マンは義援金募集に奔走し、日本政府も迅速に緊急物資や無償援助の提供、レスキューチーム、医療チーム、耐震診断の専門家、ライフラインの専門家が派遣されました。横須賀から救援物資の仮設住宅を積んだ海上自衛隊輸送艦おおすみ」では出発前に艦長から次のような訓示がありました。

トルコ共和国はイラン・イラク戦争のおり、危険もかえりみずに二機の航空機を派遣し、テヘランに在留していた邦人215名を救出してくれた。日本は、いまこそ、トルコの恩に報いなければならない。トルコのひとびとの友情に応えなければならない。・・・先達が遺してくれた日本とトルコの絆を断ち切るようなことがあってはならない。さあ、すみやかに、トルコへ向けて出発しよう。トルコには日本の支援を待ち焦がれているひとびとがいるのだ」

 日本からの救援物資はトルコへ届けられ、仮設住宅は「日本トルコ村」と呼ばれ、ピーク時には5000人の避難民が身を寄せました。ドアには日の丸が張られ、路地は「東京通り」「神戸通り」などと名付けられました。



参考文献
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
 新人物文庫「海の翼」秋月達郎(著)
 現代書館「明治の快男児トルコへ跳ぶ」山田邦紀(著)
添付画像
 トルコ航空 ボーイング 737-800型機(PD)

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庄野真代 飛んでイスタンブール
http://www.youtube.com/watch?v=Ps6becb2jns