好きよイスタンブール 〜 山田寅次郎

日本とトルコの架け橋。



 トルコ共和国イスタンブールの観光名所であるトプカプ宮殿に日本の鎧と兜、そして陣太刀が展示されています。これは明治25年(1892年)、山田寅次郎オスマン帝国皇帝アブドュル・ハミト二世に奉呈したものです。父祖伝来の鎧と兜、太刀は豊臣秀頼が所持していたものです。

 山田寅次郎は上野沼田三万五千石の沼田藩藩士、中村莞爾と島子の次男として生まれました。16歳のときに茶道・宗偏流(そうへんりゅう)の第七世山田宗寿の養子となり、以降、山田姓を名乗ります。語学に興味をもち、文豪、幸田露伴と交流を持ち、政治にも関心を持っていました。この寅次郎の人生を大きく変えたのが、トルコの軍艦エルトゥールル号事件でした。

 エルトゥールル号事件はトルコの軍艦エルトゥールル号和歌山県大島樫野先付近で台風のため座礁し、機関が爆発して約500名の乗組員が死亡するという海難事故です。寅次郎は全国をかけまわって義捐金を集め、そして自らトルコに赴いて義捐金を手渡したのです。このときに鎧と兜、陣太刀を皇帝に奉呈しました。
 アブドュル・ハミト二世は「トルコは日本との修好および通商を年来希望しつつあるが、それには第一に双方がお互いの言葉を理解する必要がある」として寅次郎にしばらくイスタンブールに滞在してオスマン帝国の陸海軍士官若干名に日本語を教えるよう要請します。寅次郎は快諾し、陸軍士官六名と海軍将校一人に日本語を教えることとなりました。この中の一人に後にトルコ建国の父となるケマル・アタチュルクがいました。

 寅次郎は日本語を教えるだけでなく、日本とトルコの貿易振興にも奔走しました。この頃、トルコではイスタンブールに商品陳列館というのを設けてトルコ製品、外国製品を見本として陳列しておき、その見本を見てトルコおよび各国の商品が注文を出す仕組みになっていました。寅次郎は日本の絹布(けんぷ)、漆器、茶、木工芸品その他多数の雑貨類を持ち込み、展示しました。トルコは農業国でこうした工業品、工芸品はヨーロッパからの輸入品ばかりだったため、寅次郎の日本商品は注目され、注文が殺到しました。

 日本とトルコの国交は条件が折り合わなかったり戦争があったりしてなかなか進まず、正式国交は第一次世界大戦後に結んでいます。それまでは寅次郎が実質の民間大使の役割をしていました。寅次郎は中村商店の番頭を務めながら、日本から来訪する皇族、高官の人たちに対してオスマン帝国皇帝や政府要人との交渉の補佐、通訳、要人たちの視察の案内を快く引き受けて便宜をはかりました。皇族では東伏見宮殿下や首相となった寺内正毅、軍人では乃木希典をはじめとし、寅次郎の自伝によると数十名もあがっています。

 大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国はドイツ側についたため、イギリスと同盟国の日本とは間接的に敵対関係となりました。そのため寅次郎は日本に帰国することとなりました。帰国後もエルトゥールル号遭難者の鎮魂碑の再建に努力し、日土貿易協会の理事長を務め、両国の親交に尽力しました。

 昭和6年(1931年)、寅次郎は16年ぶりにトルコを訪れました。寅次郎は旧知のトルコ人、その遺族らに歓待され、ケマル・アタチュルク大統領から共和国記念祭に招待されました。大統領は寅次郎につぎのように語りかけました。

「私はあなたと面識があります。昔、イスタンブール士官学校で貴方が日本語を教えていたころ、私も少壮将校のひとりとして貴方を見知っていました」

 寅次郎は生涯の大半を日本・トルコ友好親善に捧げて昭和32年(1957年)に没しています。寅次郎は自伝の冒頭で次のように書いており、イスタンブールをこよなく愛していたことが伺われます。

「予本年八十七才、往時を顧みれば茫乎(ぼうこ)として長やの夢に似たり(中略)。戦災後、予大阪府南河内郡誉田の村荘に在り、危く火を逃れ、埃及土耳古(トルコ)等より将来の古器を撫(なで)し壁間の世界地図を眺めては懐旧の想いに耽(ふけ)り、(中略)、この一書に接するや、再び紅顔の昔を偲(しの)んで新たに胸踊るを禁じ難きものあり、幸いに頑健、機を得ば再び飛行機に託して新月の都(イスタンブール)を訪ふを辞せず」

 寅次郎が死の前日に詠んだ句。

「ボスポラスの東亜の景も今は夢」



参考文献
 現代書館「明治の快男児トルコへ跳ぶ」山田邦紀(著)
 中公新書イスタンブールを愛した人々」松谷浩尚(著)
添付画像
 トピカプ宮殿にある山田寅次郎が皇帝に奉呈した甲冑 Auth:Gryffindor (CC)

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飛んでイスタンブール 庄野真代
http://www.youtube.com/watch?v=CDcGLG2sg3I