おいでイスタンブール 〜 軍艦・金剛、比叡

大歓迎された日本人。



 明治23年(1890年)9月16日、トルコの軍艦エルトゥールル号和歌山県大島樫野先付近で台風のため座礁し、機関が爆発して約500名の乗組員が死亡するという悲劇がおきました。「エルトゥールル号事件」として知られています。生存者は69名で、大島島民の懸命の看護の上、神戸で治療を受け回復していきました。

 生存者は明治天皇の配慮により、軍艦・金剛、比叡に分乗し、10月5日、トルコへ向けて出発しました。このとき比叡に「坂の上の雲」でおなじみの秋山真之が乗船していました。「坂の上の雲」(一)に少しだけ記載があり、そこに興味深い話が書かれています。シンガポールに寄港したとき、トルコ人の有志やイスラムの僧侶たちが同胞から集めた寄付金を生存者のトルコ兵士に渡したのですが、トルコ兵士はそのお金を日本軍人の士官に預かってくれるよう頼んだのです。通常、トルコの士官に預けるものですが、なんでもトルコの士官をはじめとする支配階級は腐敗しており信用できない、というのです。オスマン帝国の凋落を垣間見るエピソードです。

 12月27日、金剛と比叡はダーダネルス海峡の手前のエーゲ海ベシケ湾に到着しました。ここで航海はストップとなりました。イスタンブールへいくにはダーダネルス海峡を通らなけばなりませんが、ロンドン条約によって外国の軍艦はダーダネルス海峡を通過できないことになっていたからです。※1 長い航海で日本軍人、トルコ軍人はすっかり打ち解けており、イスタンブールまで送っていきたいところ大変残念なこととなりました。両国兵士は別れを惜しみ、握手、抱擁を繰り返し、トルコ兵士はウィキリ港近くでトルコ海軍の輸送船タラワ号に乗り換え、金剛、比叡を背にして去っていきました。ディキリ港から遠望していた市民、湾で漁をしていた漁民たちも、その光景に涙しました。

「日本の軍艦をイスタンブールへ迎えろ!」

 トルコ国内ではこうした声が沸き上がりました。そしてスルタン(皇帝)アブデュルハミト二世は「海峡を開放せよ」と命じます。これは条約違反になります。しかし、アブデュルハミト二世は決意を持って日本の軍艦を迎え入れました。

「そもそも条約なるものは、人間の幸せを願うために結ばれるのだ。人道的行為を成している日本国の軍艦を拒むために結ばれているものではない。エーゲ海にある二隻の軍艦は、わが帝国の将兵を、傷つき疲れ果てた将兵を、はるかアジアの東の端から送ってきてくれた。いや、かの軍艦だけではない。エルトゥールル号が遭難したおり、ちいさな島の住民たちは総出で救助活動にあたってくれたという・・・あたかも、おのが家族のように、兄弟のように、恋人のように励ましてくれたという。ならば、いま、わが国にできることはなんだ」「ボスポラスとダーダネルスを開放することではないか」※2

 打ち沈んでいた金剛、比叡の日本兵士は沸きあがります。そして両艦はダーダネルス海峡を通り明治24年(1891年)1月2日、イスタンブールへ入港しました。滞在は1ヶ月強におよび数え切れないほどの歓迎会や各省からの招待をうけました。スルタン(皇帝)アブデュルハミト二世からはイユルデュズ宮殿の晩餐会に招かれ、勲四等メヂヂヤ勲章とイムチェール銀章が与えられました。日本兵士たちは2月10日まで滞在し、帰国の途につきました。このときイスタンブールに残った日本人がいました。時事新報の野田正太郎という人です。スルタン(皇帝)はトルコ士官に日本語と日本の思想を教えたいと思い、日本人数人を残してくれるよう要望していました。そこで野田正太郎に白羽の矢がたったのです。野田が日本人初めてのトルコ定住者となりました。そして野田は日本人初のイスラム教徒にもなっています。


※1 この条約はロシアの南下を防ぐためのものだった。
※2 新人物文庫「海の翼」秋月達郎(著)からの引用。完全なノンフィクションの著ではないため、実際にスルタン(皇帝)がこのような話をしたかは不明。

参考文献
 藤原書店 別冊環14「トルコとは何か」『日本・トルコ関係小史』三沢伸生
 竹書房「世界が愛した日本」四條たか子(著)
 新人物文庫「海の翼」秋月達郎(著)
 文春文庫「坂の上の雲司馬遼太郎(著)
 現代書館「明治の快男児トルコへ跳ぶ」山田邦紀(著)

添付画像
 オルタキョイ・モスクと夕暮れのボスポラス海峡 Photo taken by Huygens(CC)

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飛んでイスタンブール 庄野真代
http://www.youtube.com/watch?v=YEDnxW1h46k