クォン・デ侯

ベトナム独立を目指した皇族クォン・デ侯。


 
 クォン・デ(彊柢 畿外侯)侯はベトナム阮朝(ぐえんちょう)の皇族で、始祖、嘉隆帝(ザーロン)帝の五代目の直系王子です。

 19世紀中ごろよりベトナムはフランスの圧倒的武力によって植民地支配されてきました。ベトナム独立運動家である潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)はベトナムが独立を勝ち取るには皇族を擁立する必要があると考え、明治37年(1904年)、クォン・デ侯を頭首に「維新会」を結成しました。

 潘佩珠はベトナム独立のためには日本の力を借りるしかない、と考え、先行して日本に渡り、一旦帰国すると東遊運動(ドンズー運動 日本に学べ)のため学生等を連れて再度日本に上陸しました。クォン・デ侯は明治39年(1906年)に数人の同志たちとベトナムを脱出しました。クォン・デ侯は24歳。ベトナムのフエの王城に、若く美しい王妃と三人の愛児を残しての脱走であり、再び会うことのない旅立ちとなりました。王妃は終生、クォン・デ侯の帰りを待ち続けたといいます。

 クォン・デ侯は犬養毅頭山満の支援を受け、東京振武学校に学び、一旦病気のため退学しますが、明治41年(1908年)、早稲田学校に入学しました。しかし、フランスがこれらのことを見逃すはずはなく、日本に対してクォン・デ侯の身柄を引き渡すよう強く求めてきました。フランスの圧力に屈した日本は明治42年(1909年)、身柄を引き渡すことはできないが、退去勧告を行いました。

 クォン・デ侯
「日本政府が国交上の必要により、私に退去を促すのはやむを得ない。日本官吏の健康を祈っている」

 クォン・デ侯は上海経由で香港に渡り、その後、タイやヨーロッパを転々とし、一度、密かにベトナムに戻りました。クォン・デ侯は東遊運動を根強く展開しました。支那辛亥革命が起こったとき、潘佩珠らと「越南光復会」を結成。大正4年(1915年)には再来日を果たています。クォン・デ侯を支援したのは犬養毅頭山満のほか、大川周明松井石根も熱心に支援しました。

 昭和14年(1939年)、「越南光復会」は「越南復国同盟会」として再建されました。昭和15年(1940年)、日本軍が北部仏印へ進駐したとき、「越南復国同盟会」はラップ将軍を擁立し、日本の特務機関である山根機関の支援を受け、独立の武装蜂起を計画しましたが、日本軍が外交交渉の結果、平和進駐となったため、孤立し、失敗に終わりました。

 昭和20年(1945年)3月9日、日本軍は明号作戦を発動。一夜にしてフランス軍を蹴散らし、ベトナム独立が実現します。民衆に人気のあるクォン・デ侯の帰国が望まれました。ベトナムでは「東方から白馬にまたがった王子が帰ってくる」という噂が広まったといいます。
 7月30日、東京のホテルで盛大なクォン・デ侯の壮行会が開かれました。同日の朝日新聞「亡命40年、神聖の故国へ」と報道しました。クォン・デ侯は羽田空港で迎えの飛行機を待ちましたが、それは遂にやってきませんでした。もう飛行機を飛ばせる戦況にはありませんでした。

 やがて日本が敗戦するとホ・チ・ミンが政権を奪取し、再びフランスもやってきて戦闘状態となります。ホ・チ・ミンもフランスも民衆に人気のあるクォン・デ侯の帰国を望みませんでした。
 昭和25年(1950年)、クォン・デ侯はカオダイ教ベトナムに100〜300万人の信者を持つ宗教団体)の支援により、海路ベトナムへ向かいますが、フランスの圧力により失敗に終わりました。

 昭和26年(1951年)4月6日、クォン・デ侯は日本で亡くなりました。69歳でした。最期の言葉は次のように伝えられています。

「兄弟同士の戦争は止めること!国の人たちに、そう伝えて欲しい」



参考文献
 明成社「日越ドンズーの華」田中孜(著)
 ウェッジ「特務機関長 許斐氏利」牧久(著)

添付画像
 左がクォン・デ侯、右はファン・ボイ・チャウ(PD)

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