日本軍の仏印進駐

ベトナム解放近し!

 昭和15年(1940年)9月、日本軍は北部仏印(フランス領インドシナ)へ進駐しました。これを教科書で「侵攻」などと書いているのもあり、侵略したかのように教えられていますが、それは戦後に作られたウソであり、松岡−アンリ協定による話し合いの外交によるものです。昭和16年(19415年)7月28日、29日の南部仏印進駐もフランスとの話し合いによるものです。これによってアメリカが日本への石油全面禁輸に踏み切ったように言われ「日本が悪いことしたから」そうなったように教え込まれてきましたが、石油全面禁輸はもっと前に決まっており、南部仏印進駐しなくても禁輸されていました。

 日本軍は平和的に北部仏印に進駐しましたが、実際はフランス軍の一部が抵抗し、戦闘が発生しています。見逃せないのが、この時、ベトナムラップ将軍率いる復国同盟軍が日本軍に呼応して反仏蜂起したことです。建前上、平和進駐であったので、日本軍はラップ将軍にしばらくゲリラ戦をするよう進めますが、ラップ将軍は応じず、ハノイへ進撃し、フランス軍と戦いましたが、破れ、捕らえられて処刑されました。日本軍はその後「山根機関」を通じてラップ将軍の残党を支援しました。またベトナムの一大勢力であったカオダイ教も反仏武装蜂起しており、これにも日本の商社「大南公司」の松下光広社長が支援していました。ホアハオ教「国を救うものが東からやってくる」というお告げにふれ日本軍の進駐を歓迎し、日本軍に協力しました。日本は表向きはフランスと協調し、裏ではベトナム独立を支援していたのです。

 仏印進駐を果たした日本軍が見たものは哀れなベトナム人の姿でした。仏印にいた日本人は口々に次のように語りました。

「安南人(ベトナム人)はフランス人なんかと話せないんですよ。近くに行くとぶるぶる震えちゃってダメなんです」
「カチナ通り(=現ドンコイ通り。ベトナム南部ホーチミン市の目抜き通り)なんかで、安南人が裸足でぺたぺた歩いているでしょう、そうするとフランスの警察が来てそれをとっ捕まえるんですよ」
サイゴン(=現ホーチミン市)市内のプールに日本人が行きますよね、するとフランス人から日本人が来たぞと怪訝な目で見られるんですね」

 ベトナム人は進駐してきた日本軍を見て驚きました。日本軍人は朝早いうちに起床し、元気のいい掛け声で体操します。一番電車も走っていない時間に日本軍のトラックは疾駆しまわります。椰子の木陰でもの凄い気合で銃剣や剣術の稽古を行います。夜になると一部の将校以外、日本兵の姿は街中から姿を消します。日本の憲兵隊が自動車で街中を巡視します。ベトナム人にとって日本軍はおそろしいほど規律正しく、勤勉に映りました。また、日本軍は海軍の軍楽隊が無料公演を行うなどして、賛辞を受けました。

 日本軍とベトナム人の仲はおおむね良好で、いくつかベトミン(ベトナム独立同盟)との交戦はありましたが、相互不可侵を秘密に結んでいる部隊もありました。
 第二次世界大戦の中、日本軍の進駐後もベトナムは平和な時間が過ぎていきましたが、水面下では日本の山根機関、許斐機関、支那の戴笠機関、アメリカのOSS(戦略事務局)、フランスのスパイ組織といった機関が熾烈な工作合戦を繰り広げていました。



参考文献
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 祥伝社黄金文庫東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 ウェッジ「特務機関長 許斐氏利」牧久(著)
 WEB草紙「ベトナム秘史に生きる日本人」玉居子精宏(著)
 東京財団ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究」井川一久(著)
 中公新書「物語 ヴェトナムの歴史」小倉貞男(著)

添付画像
 南部仏印サイゴン(現ホーチミン)を走る日本の銀輪部隊(PD)

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