明号作戦後のベトナム

明号作戦後、日本軍はいなくなった。ベトナムはどうしたか。


 昭和20年(1945年)3月9日、日本軍はベトナムで明号作戦を発動。フランス軍を蹴散らし、ベトナムを植民地から解放しました。

 ベトナム解放後のある日、陸軍宣伝部隊の佐野裕二さんはベトナム人新聞記者と雑談をしていました。ベトナム人記者の一人がこう述べました。

ベトナムが独立したといっても、外交権はなし、軍隊もない、では独立国家とはいえないじゃないか」

 ベトナム人は日本軍の仏印進駐により日本がベトナム独立にすぐ手を貸すだろうと考えていましたが、5年もかかり、まだ物足りない様子だったといいます。しかし、血を流したのは日本軍なわけですから、佐野さんは内心憤りを感じました。

 この頃、ベトナム北部では飢餓が起きていました。その被害は中部にも広がっており、佐野さんが50年過ぎても忘れられないのは多くの農村が無人地帯になっていたことだと述べています。これはよく日本軍が食糧を摂取したため、200万人が餓死したと言われますが、これはプロパガンダであり、3万の日本兵が200万人分の食糧を必要にするわけがありません。ホ・チ・ミンが200万人といい、フランスが日本に罪をなすりつけたようですが、ハノイ欽差大臣であったファン・ケ・トウは「約40万人が死亡した」と述べています。これは前年、北部は天候不順で大規模な洪水がおきて不作となったのと、米軍の爆撃により南部から米の移送ができなくなったとか、コレラチフスが流行したという様々な要因が重なったと思われます。

 日本軍の明号作戦武力発動後の3月末に保大帝チャン・チョン・キム政権を発足させました。明号作戦は5月15日に終了し、「人頭税」を廃止する布告を出しました。さらに日本軍は保大帝に対して「日本軍はベトナム国に帰属するインドシナの旧フランス植民地をベトナム政府が回収することは異議をさしはさまない」と通告し、保大帝は旧フランス領を回収することを宣言しました。

 フランスが追い出されるとベトミン(ベトナム独立同盟)の動きも活発化してきました。8月15日に日本が敗戦すると、ホ・チ・ミンはインドシナ共産党全国大会を開き、全国交戦委員会を設立しました。そして、16日、17日とあらゆる政党、組織、少数民族を糾合したベトミン全国大会を開催し、10大政策を決め、連合軍がインドシナに到着する前にチャン・チョン・キム政府から権力を奪取し、自らの政府を樹立し、連合軍を迎え入れることを目指す総蜂起を指令し、ホ・チ・ミンを主席とする暫定政府、民族解放中央委員会を選出しました。この蜂起によりチャン・チョン・キム政府は崩壊し、保大帝は退位しました。9月2日、ホ・チ・ミンは独立宣言を行いました。この後、フランスがまた支配に乗り出してきます。明号作戦はベトナムの長い長い戦いの幕開けでもあったわけです。

 日本軍はやがて去っていきましたが、約600人がベトナムに残り第一次インドシナ戦争をベトミンとともに戦うことになります。日本兵が引揚げの船に乗るとき、多くのベトナム人が埠頭にあふれたといいます。そして老いも若きも男も女もこう叫んで盛大に見送ってくれました。

「日本の兵隊さん、必ずまた来てくれ!」




参考文献
 日新報道「53年目の仏印戦線」佐野裕二(著)
 WEB草紙「ベトナム秘史に生きる日本人」玉居子精宏(著)http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0802.php
 中公新書「物語 ヴェトナムの歴史」小倉貞男(著)
 明成社「日越ドンズーの華」田中孜(著)
 手記「明号作戦 仏印シタデル兵舎攻撃」小坂儀一
添付画像
 明号作戦でフランス海軍の巡視船を拿捕3月10日。
 〜 第三十七師団戦記出版会「夕日は赤しメナム河」藤田豊(著)より

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