ベトナム解放!明号作戦

80年にわたる植民地支配の終焉。


 昭和20年(1945年)2月のある日、ベトナム日本陸軍宣伝部の佐野裕二氏は鈴木部長に呼ばれました。

「これタイプしてくれないか」

 佐野氏はフランス語で書かれた文をタイプしようとして驚きました。ベトナム独立宣言の草案だったのです。当時ベトナムはフランスに植民地支配されていました。佐野氏は顔が熱くなり「近いな、近づいてきたな。ベトナム植民地80年の歴史に終わりが近づいているのだ」と感じました。

 戦局が逼迫してきた昭和20年(1945年)2月1日、日本最高戦争指導会議「情勢の変化に応ずる仏印処理に関する件」を決定。ベトナムのフランス総督が外交要求の呑まない場合は武力処理することになりました。
 3月9日18時(現地時間)、日仏間で米の供与に関する調印を行った後、日本側は「フランス軍は日本軍隷下に入ること」という要求を出し、2時間以内の回答を迫りました。フランス側の回答を持った使者は遅れ(回答はノー)、「7・7・7」の武力発動の暗号が発せられました。

 北部では第37師団がランソン要塞、ドンダン要塞、カオバン要塞を攻撃。第21師団は北部ラオス方面、第22師団は北部国境監視、中部は独立混成第34旅団、南部は独立混成第70旅団、カンボジア方面は第2師団が作戦を展開。日本軍は3万、フランス軍は9万。フランス軍は日本軍の行動は察知しており各所の防御を堅固なものにしていましたが、大きな弱点がありました。フランス軍は80%がベトナム人で、10%外人部隊、10%がフランス人でした。このため士気が高くなく日本軍の猛攻の前に投降するベトナム人が少なくなく、投降するとフランス軍の事情をペラペラとしゃべりました。

 夜が明けるとほぼ大勢が決しました。ベトナム人にとってはこの武力行使は寝耳に水であり、一夜にしてフランス軍を撃破した日本軍に驚嘆しました。何しろベトナムは80年間フランスと何度戦っても勝てなかったのです。そのうち驚きは喜びに変わっていきました。
 独立混成34旅団二宮隊は10日にサイゴン(現ホーチミン)の市役所摂取に乗り出すと、どこでどうして作ったのか、早くも十数本の日の丸やベトナム独立の旗が乱立し、黒山のような民衆であふれかえっていました。その中から一老人が二宮隊長の前に来て一本の竹竿を差し出しました。竹の先には一通の書状が挟んでありました。

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献、日本軍部隊長閣下

仏国(フランス)の虐政下、安南(ベトナム)の民、塗炭の苦に喘ぐ、暦歳八十年、日月暗し。
民志破れ、天意動かず。自由の夢、遙かに遠し。
この秋(とき)、独立の曙光、皇軍となりて東方より来る
即(すなわ)ち、今朝、起つや忽(たちま)ち仏軍を追放し、長恨の民を解放し、独立の気概を与う。
日本軍の真姿、今ぞ眼前に見たり、将(まさ)に皇軍
安南の黎明、今此処に明けんとす、人民歓喜、決起して之を迎う。

 一九四五年三月十日 越南復国同盟サイゴン市民連合
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 この報告を受けた大窪大隊長「軍司令官から感状を貰うより、この安南民族からの感謝状の方が嬉しい」とこたえました。
 グエン王朝の保大帝は武力処理を伝える日本の特殊工作員に涙を流して感謝し、「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と答えられました。

 10日、日本軍布告
「日本軍はインドシナ全住民の熱望する独立を実現するために、いかなる努力も惜しまないであろう」

 3月15日、フエの街で独立祝賀隊のデモ隊が王城に殺到しました。人々の顔は喜びであふれていました。保大帝はフエの王城で独立を宣言しました。カンボジアは13日に独立を宣言。ラオスは4月8日に独立を宣言しています。



参考文献
 日新報道「53年目の仏印戦線」佐野裕二(著)
 第三十七師団戦記出版会「夕日は赤しメナム河」藤田豊(著)
 WEB草紙「ベトナム秘史に生きる日本人」玉居子精宏(著)
 中公新書「物語 ヴェトナムの歴史」小倉貞男(著)

添付画像
 独立を喜ぶ旗の波 3月10日サイゴン 「夕日は赤しメナム河」より

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