新ベトナム人たちの戦い

ベトナム人と呼ばれたベトナム独立に命をかけた日本人たちの戦い。

 


 昭和20年(1945年)、第二次世界大戦終結後間もなく、ベトナムサイゴンの街ではフランスの自警団とベトミン(ベトナム独立同盟)の小競り合いが続いていました。日本陸軍宣伝部に文官として従軍していた佐野裕二氏は軍籍を離れ、同和火災の事務所から友人と銃撃戦を見物していました。いろんな性能の銃で撃ち合うので銃声がバラエティに富んでいます。あるとき「どどっ、どどっ」と新たな銃声が響きました。

「日本軍の軽機関銃が出てきたよ」

 日本軍の軽機関銃は断続して射撃し、射撃を中止するとき、弾丸の詰まりを防ぐための指の引き金離れは熟練を要します。日本兵がベトミンに参加していたのです。

 80年もの間、ベトナムはフランスの植民地にされていましたが、植民地にされるときの戦い、されてからの抗戦で一度も勝てませんでした。それを日本軍は明号作戦で一夜にしてフランス軍を駆逐したのですから、ベトミンは日本軍の戦闘能力に目をつけました。ベトミンはベトナム全土で勧誘活動を行いました。妙齢のベトナム女性が毎晩のように日本軍将兵収容所に現れて勧誘したり、好条件(二階級特進、高給、結婚斡旋)など)で参加を求めるベトミンのビラがサイゴン市内にまで張り出したりしていました。中には拉致して強制的に参加させられた例もあります。

 ベトミン参加日本人、松嶋春義元陸軍一等兵
「あれは大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめと帰国できるかと思った」

 様々な思いを胸にベトミンに参加した日本兵は約600名と言われています。彼らは「新ベトナム人と呼ばれ、現在でも現地へ行き、日本人の足どりを訪ねて日本名で尋ねると、「日本人じゃない、新ベトナム人だ!」と怒る人もいるそうです。
 陸軍第34独立混成旅団の参謀井川省少佐(ベトナム名レ・チ・ゴー)は戦争終結前からベトミンと接触しており、終戦時にベトミンに武器を提供しました。ベトミンに参加後、ベトナム人兵士に軍事調練を施し、フランス軍とベトミン軍の戦力差を考慮し、遊撃・奇襲戦術を重視するよう進言ました。昭和21年(1946年)4月に自動車で移動中にフランス軍待ち伏せに会い戦死しました。フランス軍日本兵士がベトミン戦力の要であるとして、その捕殺ないし帰順(投降)工作に熱心でした。

 昭和21年(1946年)6月1日、クァンガイにグエン・ソン将軍を校長とし、第5戦区上級軍事幹部ドアン・クエ(のちにベトナム国防相)を事務長とする陸軍中学が設立されました。教官・助教官全員と医務官は日本軍人です。猪狩和正中尉、加茂徳治中尉、谷本喜久少尉、中原光信少尉、青山浩軍曹、峰岸貞意兵長・・・
 日本軍の軍事調練は厳しいものでしたが、生徒達は日本人教官を畏敬し、好んで彼らの真似をしました。シャツのボタンをはずしておくというような少々崩れた服装まで真似をして「ニャット・コン」(日本人の弟子)スタイルを生徒たちは誇りにしていました。地域の住民は日本人教官を「オン・ニャット」(日本さん)と呼んで歓迎しました。

 昭和21年(1946年)11月20日、ハイフォン港での密輸船取締りに端を発する銃撃事件をきっかけにフランスとの戦いの火蓋が切って落とされました。元日本兵は戦闘指揮、作戦立案への助言に大きな役割を果たしていきます。中原光信少尉はハノイ防衛軍がフランス軍の包囲作戦で窮地に陥ったとき、夜間の渡河脱出をボー・グエン・ザップ総司令官に提案して成功させました。同年のナムディン攻囲戦では、連隊司令部に野砲直射を進言し、みずからその作戦を指揮してフランス軍を苦しめています。こうした前線の直接戦闘だけでなく、武器・弾薬製造、橋梁架設、沈船引き揚げなどの後方支援でも工兵、砲兵が活躍したほか、元第21師団、高澤民也軍医中尉のように医療面でも大変な努力と活躍が認められています。各種の勲章および徽章を授与された日本人は30名を上回っています。気象観測で諸部隊の作戦を助けた槌谷勇は10種類の勲章、徽章、表彰状を授与されています。

 昭和28年(1953年)11月、ディエンビエンフーの戦いベトナム民主共和国軍が勝利し、第一次インドシナ戦争ベトナムの勝利が確定しました。この頃にはもう旧日本軍人の手助けは必要がないほどベトナム軍は充実してきました。

上級幹部グエン・テ・グエン大佐
「飢えたときの(米飯の)一口は、満腹時の(食べ物の)一包みに勝る。我々の最も苦しかった時代の彼ら(日本人)の貢献は何よりも貴い」

 ベトミンに参加した旧日本兵は次々日本に帰国しましたが、祖国日本は彼らを冷たく迎えました。「共産主義国に奉仕した者たち」だからでした。



参考文献
 日新報道「53年目の仏印戦線」佐野裕二(著)
 WEB草紙「ベトナム秘史に生きる日本人」玉居子精宏(著)http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0802.php
 東京財団ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究」井川久(著)
参考サイト
 WikiPedia第一次インドシナ戦争
添付画像
 仏印鉄道(ユエ市内フォンザン河)
 〜 第三十七師団戦記出版会「夕日は赤しメナム河」藤田豊(著)より

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