1945ソ連軍、南樺太へ侵攻す

北方領土樺太も含まれる。


 昭和20年(1945年)8月7日10時頃、南樺太の北緯50度国境線近くの半田という場所で構築中の守備隊陣地に当番兵が大声を上げて走りよってきました。

「非常呼集!!機材を置いたまま本部前に集合せよ!!」

 ソ連軍が国境を越えて進入してきたのです。国境には監視所がありますが、電話線が切断され、電柱も倒されていました。

 8月8日、14,5名のソ連兵偵察部隊が国境を越えてきて、日本軍が発砲します。国境には警察の守備隊もおり、8月9日午後1時ごろ、半田警部派出所官舎の上空で雷の走るような音とともに砲弾が炸裂し、電線がちぎれ飛びました。この日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破り対日参戦してきたのです。

 10日、ソ連軍の飛行機が延べ27機、陣地偵察にやってきました。この間、監視哨では小競り合いが続いていました。
 11日、ソ連は戦車5、歩兵300で攻撃を仕掛けてきました。日本側は第88師団歩兵第125連隊の泉沢小隊がいましたが、大国小隊との交代引継ぎ中でした。両小隊あわせて90名。装備は九九式歩兵銃、重機関銃1、速射砲1、警察は小野警部の指揮下28名でした。陣地には大国小隊が既に入っていたため、泉沢小隊は平地で戦うことになり、戦闘開始30分で泉沢小隊長はソ連の狙撃兵に撃たれ戦死してしまいました。それでも守備隊は善戦し、12日まで粘ってついに壊滅しました。

 残存の軍と警察の守備隊は7、8キロ南に下がり、飛鳥中尉の陣地に入りました。しかし、ここも包囲され、白兵戦となり、最後は兵隊も警察官も突撃しました。日本軍の主陣地は八方山というところにありましたが、警察官のうち、八方山の陣地にたどり着いたのは5名だけで、23名が戦死しました。

 予想外の日本軍の抵抗の強さに驚いたソ連軍は八方山を直接攻撃するのではなく、南にある古屯へ向かいます。北上中の第一大隊、古屯の第二大隊が迎え撃ちましたが、激戦の末敗退しました。このため八方山は食糧、武器弾薬の補給が途絶えてしまい孤立状態になってしまいました。

 16日、既に日本はポツダム宣言を受諾していましたが、ソ連軍は八方山を容赦なく攻撃してきました。そして19日明けに日本軍は総攻撃に出ることになりました。

 初年兵 丸山重二等兵
「死という一字が頭の中、からだの中にまとわりつき、からだの置き場所に困ったが、穴の中は狭く、身動きできず手だけが動いていたはずだ。突撃など初めてだが頭の中で像を描く。銃弾を撃ちながら走っていく姿だ。そして短小銃が掃射を始める。その時点で銃弾は私のからだのどこかに当たる。それが心臓か頭に当たれば幸いだが、手足に当たって死に切れないこともあるに違いない。腕でもやられては自決の道も塞がれる・・・死は怖い。軍人精神がどこかへ行ってしまった。俺は軍人だと半田で思ったが、ここでは全く思わなかった。ただ、一発で絶命するよう神に願うしかなかった」

 19日になると停戦協定がまとまり、総攻撃はなくなりました。日本軍が武装解除すると、八方山にソ連兵士が銃を逆さに背負って入ってきました。ソ連兵は新聞紙で巻いたマホルカ煙草を吸いながら日本兵と握手したり、煙草を吸えと寄ってきました。そして白パンと砂糖を運んできて勧めてきたといいます。国境での戦闘は終わりましたが、南樺太の悲劇はこの後も続くことになります。



参考文献
 文芸社樺太回想録」太田勝三(著)
 東京図書出版会樺太戦記」丸山重(著)
参考サイト
 WikiPedia樺太の戦い」
添付画像
 北緯50度の国境標柱と日本の国境警察隊員 国書刊行会「望郷 樺太」(PD)

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映画『樺太1945年夏 氷雪の門』予告編
http://www.youtube.com/watch?v=QFueq5PKNwo