二百三高地、死の命令

日本人は死へ向かってなぜ突撃できたのか。


 司馬遼太郎著「坂の上の雲」では旅順攻略の司令官、乃木希典大将を愚将のように描いて、児玉源太郎がきてうまくいったように書いていますが、ここの部分はかなりフィクション化しており、実際には児玉源太郎が来なくても旅順は予定通り陥落していたでしょうし、旅順攻略戦自体、海軍の要請で急がねばならず、かなり無理をしたという背景があります。伊地知参謀も第一回の総攻撃では世界戦史上初ともいう準備砲撃を実施したり、28センチ砲の投入も拒否したわけではなく「今後のために送られたし」と返答しています。この10年後の第一次世界大戦で激戦だったベルダン要塞攻防戦もこの乃木将軍のとった作戦と基本的に変わらないといいます。

 旅順攻略は2回の総攻撃に失敗し、主攻目標を二百三高地への転換しました。明治37年(1904年)11月27日夜半に第一師団が攻撃を開始し、山頂を巡って凄まじい攻防が繰り広げられます。このとき乃木将軍の次男・保典が戦死しています。この凄まじさは二百三高地という映画を見た人、「坂の上の雲」を読んだ人はよくわかるでしょう。

 「坂の上の雲」は小説なので創作が入っているかもしれませんが、同著によると二百三高地攻防の様子を海軍の「赤城」艦長が「味方軍が、二百三高地の中腹にダニのむらがりついたように見える」と船から双眼鏡で確認しています。敵の鉄砲火がすさまじいため、動けないのです。このとき香月中佐の隊と村上大佐の隊が頂上へ向かっており、敵の鉄火砲をしのいでいました。そこへ旅団長命令が届きます。

 「陣地を出て前進せよ」

 まさしく「死の命令」です。日本兵は突撃し、鉄条網の前でバタバタ倒れ、500名ほどの日本兵が1000人のロシア兵と白兵戦となり、日本兵残存者は50名となります。さらに旅団指令部より「貴官は全滅を顧慮することなくさらに前進して二百三高地を占領せよ」というすさまじい命令がでます。そして前進し、最初の二百三高地奪取が実現しています。

 いったいどうしたらここまでのことが出来るのか、と現代人としては考えてしまいます。軍命令は絶対でしょうが、死ねといわれてハイと死ねるものなのか・・・人間には「自己防衛本能」のほか「種族防衛本能」があると言います。身を捨ててでも家族や社会、国家を守ろうとするのはこの「種族防衛本能」によるものです。明治維新以降、日本がおかれた環境を考えるとこの時代を生きた人は「種族防衛本能」が研ぎ澄まされていた、と考えることができます。現代では合理主義という理性論が語られ、個人主義と人権論からくる「命の大切さ」だけを教えているでしょう。この教えでは親が子のために自己の生命と身体を犠牲にすることはありえないことになります。偏った教え方をされ、本能を劣化させられているから子供の虐待や子殺しが絶えないのだと思います。司馬遼太郎坂の上の雲」では二百三高地の突撃部隊は「理性」ではない「狂気」が支配していた、と書いていますが、その「狂気」は本能が生んだ自然なものではないでしょうか。



参考文献
 文春文庫「坂の上の雲司馬遼太郎
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
 小学館SAPIO2009/11/11「なぜ司馬遼太郎乃木希典を『愚将』だと誤解したのか?」井沢元彦
 まほらまと草子「まほらまと」南出喜久治
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 旅順戦の乃木将軍 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/22692039.html

添付画像
 旧乃木邸の門(JJ太郎撮影 PD)

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二百三高地 PORT ARTHUR (1980) - Original Trailer
http://www.youtube.com/watch?v=7YZAUe3ee2Y