広瀬武夫の最期

軍神・広瀬


 明治37年2月8日、日本海軍は旅順港外のロシア艦隊を夜襲をかけ、日露戦争の火蓋は切って落とされました。

 この旅順港攻撃によってロシア艦隊は機雷を施設して旅順港に篭ってしまいました。そこで、日本海軍は旅順港を閉塞する作戦に出て、ロシア艦隊が旅順港に籠もるなら、狭い水路に船を沈めてロシア艦隊を湾内に押し込めてしまおうとしました。しかし、警戒厳重な旅順の要塞砲の目を掠めて、船を沈めボートで脱出するのは至難の業です。それでもこの決死行に2000名が志願しました。
 
 第一回目の閉塞作戦はロシア軍の砲撃にさらされ閉塞戦が目標に到達できずに失敗。第二回も名将マカロフがロシア太平洋艦隊司令官に着任し、士気あがるロシア軍の前に再び失敗に終わりました。

 この第二回の閉塞作戦では広瀬武夫少佐が率いる福井丸が旅順口に到達しましたが、魚雷攻撃を受け、自沈に至りました。乗組員は脱出しようとしましたが、広瀬少佐は部下の杉野一等兵曹がいないことに気づきます。広瀬少佐は沈み行く「福井丸」に戻って杉野を探し回りました。ここのところは文部省唱歌となった「広瀬中佐」の歌詞、「轟く砲声(つつおと)、飛び来る弾・・・杉野は何処、杉野は居ずや」が有名でしょう。結局杉野を発見できず、断腸の思いで脱出用のボートに戻ったところへロシア軍の砲弾が飛来。広瀬少佐は肉片を残して海に消えるという壮絶な最期を遂げました。

広瀬少佐と同じボートに乗っていた兵曹の回想
「ああ、広瀬少佐が戦死されたとき、私はボートの一番をこいでいました。すぐ目の前ですよ。少佐は元気で(みんなオレの顔見てこげ・・・)といって、沖へ沖へと舵をとっていましたが、瞬間(ウーン)という声だか音だか分かりませんが、私が顔をあげると、少佐の首が見えず、真っ赤な血が首元から吹き出ると、胴体がコロリと海の中へ落ち込んだのを見てしまったのです。ハッと思って、オールをつかむと同時に私は胸の辺りになまぐさいものを浴びせかけられました。これが広瀬少佐の血だったのです」

司馬遼太郎著「坂の上の雲」の描写
「探照燈が、このボートをとらえつづけていた。砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。
 そのとき、広瀬が消えた。巨砲の砲弾が飛びぬけたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい。そのとなりにすわって舵をとっていた飯牟礼ですら気づかなかったほどであった」

 広瀬少佐のこの行動は広く宣伝され、軍神第一号として祀られています。
 
 広瀬少佐はロシア駐在時代にアリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤと知り合い交友があったといわれており、広瀬家ではアリアズナが大分の広瀬の実家を訪問したことが伝えられています。

 杉野兵曹長の息子、孫ともども海軍兵学校、戦後は防衛大学に入学し、海軍士官の家系となりました。ひ孫にあたる杉野正隆氏はオペラ歌手になり、「広瀬中佐」を熱唱されたといいます。




1. 轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。
2. 船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
呼べど答へず、さがせど見へず、
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよあたりに繁し。
3. 今はとボートに 移れる中佐、
飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
旅順港外 恨みぞ深き、
軍神廣瀬と その名残れど


※1 2010.12.28訂正。杉野孫七の階級については戦死後は「海軍兵曹長」。旅順閉塞戦のときの階級については「一等兵」「上等兵」と当初書いていたのは誤りで「一等兵曹」「上等兵曹」のどちらかだが、文献によって異なるので、今のところ確認できておりません。すみません。



参考文献
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
 「坂の上の雲司馬遼太郎
 歴史通2010.1「軍神 広瀬武夫の最期」池島新平
 歴史通2009.10「軍神・広瀬の恋人 アリアズナの『電撃来日』」宮嶋茂樹
参考サイト
 WikiPedia広瀬武夫

添付画像
 広瀬武夫(PD)

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広瀬中佐 (唱歌)
http://www.youtube.com/watch?v=rkl-3GB2nnI