豊臣秀吉 VS スペイン大帝国

 豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)といい1592年から1598年の間2度にわたって出兵が行われました。この歴史は秀吉の征服欲で語られることが多く、そのほかの説では武士の雇用救済とか、弟の秀長が死去したため狂ったとか、そんなことが言われていたと思います。

 最近は豊臣秀吉がスペイン大帝国の侵略に備えた世界観から行われているという説があります。まず、キリシタンの禁止は宣教師を尖兵としたスペイン大帝国の侵略の常套手段を封じるため、あるいはスペイン大帝国との手切れのため追放したとも言われています。
 秀吉は当初はキリスト教を禁止しておらず、交流を深めていました。スペインでは日本は武勇の国なので侵略は諦めて日本と手をとって明国を攻めようという動きになります。しかし、日本とスペインの同盟は不調となり、スペインが明を侵略するとそれは日本にとっての脅威となるため、先に日本が占領してしまおうと秀吉は考えました。それで朝鮮半島経由で明を攻めることになったというものです。
 1594年4月マニラ総督宛に秀吉が書状を送っておりその書状は残っています。内容はほとんど恫喝であり、既に朝鮮を占領したぞ、マニラに攻めることもできるぞ、スペイン国王に日本と友好関係を結ぶように進言しろ、というものです。
 1596年、貨物を満載したサン・フェリーペ号という船が、逆風を受けて土佐の浦戸に漂着するという事件が起きており、このときにスペイン大帝国が宣教師を送り込んで侵略を行う手口が秀吉に報告されています。
 1596年長崎において二十六人のキリスト教徒が処刑され、秀吉のもとにマニラから抗議が入ります。

 しかし、1598年に秀吉が死去。スペイン大帝国も1588年に無敵艦隊の敗北という大事件がおきた後であり、イギリスやオランダに押されてきている頃ですので、日本とスペイン大帝国が抗争に至ることはありませんでした。



参考サイト:WikiPedia豊臣秀吉」「スペイン」「文禄・慶長の役
      【はじめて書かれる地球日本史】
       http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2443.html
       http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2444.html
       http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2445.html
       http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2583.html
       http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2584.html
参考文献:「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著


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