王道楽土の満州

 満州国というと「日本の侵略の象徴」「日本の傀儡国家」「日本の植民地」「関東軍が暴走した」というイメージが刷り込まれていると思いますが、一方向の見方はもういいかげんいいでしょう。昔、元大本営参謀だった瀬島龍三氏がテレビ出演したとき遠い目をして満州を懐かしんで”すばらしい国だった”というようなことを語ったシーンを思い出します。

 満州国建国以前の満州軍閥、匪賊が支配する無法地帯で匪賊集団は住民から食糧、衣服、日用品などを強奪し、誘拐をしては身代金を要求していました。張作霖・学良支配下満州の財政をみると1929年の歳入は一億二百万元で歳出は一億四千八百万元で赤字です。歳入は塩税とアヘン収入です。歳出のうち8割は軍事費なのでインフラ整備などまったく行われていません。赤字補填は私的な財産の強奪、恐喝、誘拐でした。どのような世の中か想像できるのではないでしょうか。関東軍満州を制覇し、満州国を建国できたのは秩序と治安維持によって民衆に受け入れられたからです。武力だけで成し得ることではないでしょう。

 日本は満州に近代都市、田園都市を建設し、道路、電気、電話、上下水道、ガス、衛生施設、公園、市場、競技場などの公共施設を普及させます。医療関連事業、学校、図書館等の教育文化事業に力を入れ、各種研究所や試験場など医学的、科学的、文化的に満州を開発します。
 豊満ダムを視察に訪れたフィリピン外相は「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過している。だが住民の生活向上に役に立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と歓声を発したといいます。満州国総務庁広報長だった武藤富男氏は「私たちは征服者としてではなく、奉仕者として満州国建設にあたったと信じている」「私たちは満州を植民地としてではなく、現地住民と一体となり、複合民族国家として自立する理想国家を建設しようとしたのである」と述べています。

 戦乱と飢餓の大陸の中で安定した満州は大陸の桃源郷となり、年間百万人の人間が長城をこえて満州になだれ込んでいきます。「王道楽土の建設」は単なるスローガンではなかったのです。
 毛沢東は「仮にすべての根拠地を失っても東北(満州のこと)さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語ったそうです。それほど満州は発展していたということです。

 敗戦のとき、張景恵国務総理はこう語ったといいます。
「日本の軍隊は世界一強かったが、日本の軍人は戦争の意味を知らなかった。戦争は談判の手助けだけのものだ。それを日本の軍人は戦争を個人間の果し合いと間違えていた。かえすがえすも惜しい軍隊を失った」

 県参事を務めた日本人に現地の古老(漢人化した満州旗人の出身らしい)が語った言葉。
日清戦争当時の日本軍は、農家に宿営しても、自分たちは庭にテントを張って休み、庭を箒で掃いていくような立派な軍隊だった。日露戦争に来ている軍隊もよく、長く居座っている大鼻子(ロシア人)には反感もあったし、労力も食糧も車もすすんで出した。ところが奉天の会戦後、たくさんの日本人が奉天に来たが、この人たちが急に威張りだした。満州事変のときに間島省にやってきた関東軍は、たちの悪い朝鮮人小作人の訴えを真に受けて、地主の漢人をいじめたりした。そのうちに満州国建国となった。日本人もだんだんよくなりつつあると思って楽しみにしていたが、敗戦で残念ですねえ」


参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「世界史の中の満州帝国」宮脇順子著

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