金嬉老事件

 凶悪犯罪、金嬉老事件(きんきろうじけん)に群がる差別ビジネス。


 昭和43年(1968年)2月20日夜、静岡県清水市のバーで借金返済を迫る暴力団員3人のうち二人をいきなりライフルで撃ち殺した無職・金嬉老(キム ヒロ 39)が車を奪い闘争し、温泉旅館ふじみやに押し入り、宿泊客ら16人を人質に88時間に及んで篭城した事件です。
 金嬉老清水市の生まれです。父親は建設労働者でしたが、昭和6年に事故死し、母親は2年後に再婚しますが、生活は苦しく、小学校は5年中退し、丁稚奉公にでます。その後、盗みをやり清水警察につかまりますが、姉とともに鈴与レンガで働き、軍関係の飛行機工場で働き、清水に帰るとまた窃盗で捕まります。少年院に送られますが、終戦によって出所。その後も窃盗、詐欺、強盗の汎愛を繰り返しますが、冒頭に書いた殺人事件を起こします。そして記者に変装した刑事が飛び掛って取り押さえます。
 
 金は静岡地裁で意見陳述を行い「日本の皆さんに迷惑をかけたことを謝罪する」と述べています。一方「私たち民族に対する醜い偏見や差別、ひどいことが多々あるんだと、それはあってはいけないんだと・・・」 これはもう知識人やマスコミが飛びつくような内容で、当時やはりそうでした。篭城しているときから記者団を招きいれ「この角度のほうがいい写真が取れるよ」などといい、タレント気取りで、テレビの本番中に電話出演して子供時代から受けてきた差別の現状を訴えたりしていました。その際に、以前、彼に差別的は発言を浴びせたK巡査の謝罪を要求したり、自作の短歌をしたためた遺書を公開したり、ダイナマイト2本を爆発させ自殺をほのめかすなどやりたい放題。
 
 金は無期懲役でした。面会は自由で、房内には金品、ラジオ、カメラ、包丁、ヤスリ、エロ写真まであったといいます。そして70歳で仮釈放され、支援者に導かれて故郷釜山に帰りました。韓国では「差別と闘った在日英雄」として迎えられました。おそらくこの当時としても「差別」だけクローズアップして偏向報道していたのでしょう。素行をよく見ると擁護する気にもなれません。
 
 この金を擁護する意見の中に、現在よく知る有名人に姜 尚中(カン サンジュン 東大教授)や辛淑玉(シン スゴ)が目につきます。
 姜 尚中 1999年9月7日毎日新聞
「金氏は当時の在日韓国・朝鮮人が共有していたものを、自滅的にアピールした。在日韓国・朝鮮人はその姿に自らの内なる『金嬉老』を感じた。(略)最近、日韓が急速に接近し、よい関係にあんっているが、金氏を生み出した構造は残ったまま。事件から学ばず、歴史の中に封じ込めれば、今後、第二、第三の金氏が生まれる可能性がある」

 ちょうど、金氏が釈放されたときのコラムと思われます。さすが「差別ビジネス」で飯を食っているだけのことはあり、悲劇的に述べてひきつけておいて、問題点をあげ、「今後」につなげています。ちゃんと今後の自分の飯の種を撒いています。このコラムで一番苦々しく感じたのは善良な在日韓国人ではないでしょうか。自らの内なる『金嬉老』を感じた、と述べているあたり、日本人の警戒心は高まります。姜尚中氏のエゴイズム的発言といえます。

 さて、金氏は平成11年(1999年)に仮釈放され、獄中に結婚した韓国人女性と同居します。この妻が翌年には現金や預金通帳など持ち出して行方を絶ちました。同じ年に金は釜山市内のアパートに押し入り、部屋にいた男を手製の竹やりで脅し、1時間にわたって監禁します。金はこの男の妻と親しい関係にあったといいます。金は殺人未遂と放火容疑で逮捕され、懲役2年6ヶ月の判決をうけ、治療看護所に収容されました。どうみても根っからのワルです。被害者アイデンティティに人生の根拠と動機を見出している人間には自己責任の感覚がない、といいます。

 今年、金氏から入国申請があり、その一月後に3月26日に前立腺がんのために釜山市の病院で死去しました。享年82。本人の希望により、遺骨は静岡県掛川市に納められています。祖国韓国より故郷日本がよかったということで、日本は差別されたイヤな国ではなかったということです。マスコミや知識人が差別ビジネスに群がったということです。ご冥福をお祈りします。



参考文献
 「在日・強制連行の神話」鄭 大均著
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『在日殺人犯 紳士録』若杉大
参考サイト
 金嬉老氏、日本に入国許可要請へ 
   http://sankei.jp.msn.com/world/korea/100227/kor1002271023004-n1.htm
 金嬉老氏の常連店だった!日本人観光客も死傷の韓国射撃場
   http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20091116/dms0911161610014-n1.htm

添付画像
 金嬉老 昭和43年(1968年)2月の立てこもり時のもの http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/photos/20091116/dms0911161610014-p1.htm より

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消された歴史「朝鮮進駐軍」



 WikiPediaから「朝鮮進駐軍」が消されています。どうやらハングルネームの方が削除に一生懸命働きかけたようです。一個人が削除を働きかけただけでなく、そっち系の団体か政治家が動いた可能性があります。
 
田中明 日本人の見た戦後日韓関係 「現代コリア」1992年12月

「敗戦直後の在日朝鮮人は、敗戦国の無力な警察を嘲笑しつつ、暴力と脱法行為で虚脱状態の日本社会を我がもの顔に横行した。超満員の列車から日本人を引きずりおろして、自分たちが占領するといった光景は、決して珍しいものではなかった。くどくどいうのは控えたいが、その有様は、かつて居留民団の団長をし、本国の国会議員にもなった権逸氏が、著書『回顧録』のなかで『今でもそのときのことを思い出すと、全身から汗が流れる思いがする』と書いていることから想像していただきたい。そうした姿は『朝鮮人=無法者集団』という印象を日本人の胸に強く植え付けた。外国人の指紋押捺制度が1955年に採用されたのも、上記との関連があった。朝鮮人による外国人登録証明書の不正受給や偽造変造があまりにも多かったのである。密航者のための登録証偽造や、実在しない人間の登録証を役所に作らせて(脅迫や買収が絡む)それを売ったり、そうした幽霊人口によって得た配給資料をヤミ市場に流すなど、さまざまな不正があった」

毎日新聞社編「白い手黄色い手」1956年

「完全な無警察状態 − 。そのいい例が24年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人4人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身元がわかり、深川署の刑事二人が逮捕状を持って(略)出かけたところ、(略)逆に"不審尋問”され、袋叩きの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。"見まい、聞くまい、振り向くまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという」

 いくらがんばってもやったことは消えません。終戦直後から朝鮮人は「お前ら四等国民の日本人がわれわれ二等国民である朝鮮進駐軍に指図するとは生意気な!」といって横暴を繰り広げました。鳩山一郎(前総理の祖父)が半殺しにされたのは有名な話です。昭和20年10月には「在日本朝鮮人連盟」が結成され共産主義組織となり占領軍と対立するようになります。メーデー事件、吹田・枚方事件、大洲事件などがあります。

 こうした朝鮮人の加害性は80年代以降にメディアによって「被害者」にすりかえられて、現在でもWikiの削除や「ヨーコ物語」の弾圧に見られるように歴史抹殺の動きにきています。しかし、こうした歴史の捏造・歪曲はどこかに反動がくるもので、それがネットに吹き出ており、本記事もそのひとつに数えることができます。



参考文献
 「在日・強制連行の神話」鄭 大均著
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『朝鮮進駐軍三国人』詠清作
参考サイト  
 ウィキペディア「朝鮮進駐軍」記述削除問題
   http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/e13d47e72dfcc4572a9645164785ef02

関連記事
 ならずもの韓国人が被害者になった歴史
   http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/23842540.html
 朝鮮進駐軍の横暴
   http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/20610370.html
   
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朝鮮進駐軍-wikipedia-
  http://www.youtube.com/watch?v=PGw6QB6kueo
  

隠される朝鮮半島残酷物語



 大東亜戦争敗戦直後の朝鮮半島ではソ連軍が侵攻するとレイプ被害が多発しましたが、もっとも加害者として多かったのは実際には朝鮮人だったという統計があります。こうした事実を裏付けるようなある引き揚げ少女の記録「ヨーコ物語」(竹の森遠く)があります。amazonで探してみましたが、「So Far from the Bamboo Grove」Yoko Kawashima Watkins 英語版だけで和訳はまだありません。
 この「ヨーコ物語」は米国の全州の中学校で副読本として採用されましたが、2006年に在米韓国人が「歴史の歪曲である」と騒ぎ出し、その圧力によって副読本からはずされてしまいました。日本でも訳了直後に日本での出版翻訳権契約が解約され、出版できなくなりました。背後で半島系の団体、政治家が動いたのでしょう。

 終戦直後の「和夫一家殺害事件」は恩知らずの朝鮮人が恩人である日本人夫婦を虐殺し、その子は餓死してしまうというあまりにも無残な話ですが、歴史の表舞台に登場することはありません。「親日派のための弁明」(金完燮著)に記載されているいと聞きましたが、私が入手した同著には記載がありません。※1

 韓国は海上に「李承晩ライン」を勝手にひき、それを口実に日本漁船を拿捕し、乗組員を抑留しました。その数2,791人。抑留は長い人で3年におよび、奴隷的状況にありました。

 朝鮮人の残虐さはベトナムに持ち込まれました。1965年(昭和40年)〜1973年(昭和48年)にベトナム戦争で韓国軍が派遣されています。韓国軍は理由なき無差別殺人を繰り広げました。立ち退きを拒否したベトナム人住民たちを生きたまま井戸や防空壕に押し込み、手榴弾を投げて殺す。残忍なやり方で女性をレイプしてから殺す。「韓国兵にあったら死にあったも同然だ」とも言われました。

 こうした半島人の残酷さは歴史上の話だけではありません。現在でも韓国はアジアでもっとも強姦の多い国です。10代の韓国人の強姦発生率はあの米国の2倍、日本の10倍に達しています。(2007年統計)在韓米大使館は韓国人による強姦に注意するよう渡航者向けに警告しています。海の向こうの国のことだからといって安心はできません。日本に不法滞在している韓国人は4〜6万人いるといわれています。日本のマスコミは沈黙し続けています。


※1 親日派のための弁明2に記載されているそうです。


参考文献
 「歴史通」2010.7『奴隷のいた国、いない国』高山正之
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
    『全米で起きたヨーコ物語弾圧の真相』加藤久
    『横暴 李承晩ライン』下條正男
    『凶悪化する韓国人 外国人犯罪の実態』桜井誠
    『韓国人による性犯罪の実情』中宮崇
参考サイト
 和夫一家殺害事件 敗戦直後の朝鮮の状況
   http://housai.iza.ne.jp/blog/entry/259737/allcmt/
   
添付画像
 韓国による日本船舶の拿捕1953(PD)
 
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従軍慰安婦の正体





 戦時における軍隊の将兵の性の処理は以下に分類されます。
 
A.前線の近くの都市に売春婦の街を作る。売春婦は現地女性。

B.軍が民間の置屋を同行させ、前線よりやや後方の兵站部隊のあたりに設置する。

C.売春婦が勝手に軍部隊の駐屯地に群がる

 このうち、A,Bは現地でのレイプ防止の性格を持ちます。戦時中の日本軍の場合は主にBでした。昭和17年のシンガポール陥落のとき、人々は日本軍がシンガポールの女性を強姦するだろう(プロパガンダが撒かれていたと思われる)と恐れおののいていましたが、そのようなことは起こりませんでした。のちにシンガポール首相となったリー・クアンユーは日本軍の建てた慰安所の前に兵士たちが200名ほどもずらっと並んで順番を待つのを見て、これは日本なりの現実的で効率的な選択だと思ったと述べています。その中には日本と朝鮮の女性たちがいたといいます。この形は朝鮮戦争でも引き継がれ、昭和27年(1952年)にソウルの三箇所と江稜の一箇所に収容された慰安婦は全部で89名という公式報道がされています。その年に慰安所を訪れた兵士の総数は24万4千名あまりとされています。慰安婦問題を口にする韓国が同じことをやっているわけですからおかしな話です。

 米国の場合はAのタイプで朝鮮戦争が始まったとき、横浜、大阪、小倉の三箇所に日本人女性の慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置しています。米軍が昭和20年に日本に上陸したときもRAA協会という特殊慰安施設協会を設置し、1360人の女性が採用されています。

 古くはヨーロッパの十字軍はCのタイプになります。フランスやドイツは日本軍と同じBのタイプです。ただヒトラードイツの場合はユダヤ人女性を強制的に置屋に配置させたといいます。日本軍の場合は強制は禁止し、悪質な業者は処罰しています。

 問題なのはA,B,Cのシステムを持たない国の軍隊です。ソ連です。ですから、大東亜戦争の末期に満州へ攻め込んだソ連兵は女性をレイプしまくったのです。これは「給与」みたいなものだったといいます。あまりにもひどいので、ソ連軍将校が止めにはいると「給与」の支給妨害にも相当し、将校のほうが銃殺されることがあったそうです。満州から帰国できた婦女子は約30万人。強姦後に殺害されたり、自殺したもの、行方不明になったもの、残留したものは5万人と推定されています。ソ連満州北朝鮮だけでなく、占領したドイツでも同様のことを行っています。ソ連の場合は、犯罪者などを最前線において督戦していたので、モラルも何もあったものではなかったでしょう。
 それから朝鮮半島で強姦された女性の実態によるとある特定の時期に不法妊娠した女性が47人おり、その加害者の内訳は朝鮮人28、ソ連人8、シナ人6、米国人3、台湾人1、フィリピン人1、となっています。朝鮮人ソ連人を上回っています。もっとも残忍だったのは朝鮮人だったのです。こういうことは現在隠されているでしょう。上坪隆「水子のうた」(社会思想者)に記載されているそうです。

 こうした事実にもかかわらず、韓国人は「従軍慰安婦賠償」と言って賠償を求めてきます。現代からみれば当時の置屋についても健全ではなく映ります。当時の時代背景を隠し、自分たちがやったことも隠し、当時と現代のギャップを利用し、日本人に贖罪意識を植え込み、カネをむしりとうろうとしているということです。これに同調している政治家や団体がいます。マスコミも真実は語りません。われわれは騙されてはなりません。



参考文献
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
 「大韓民国の物語」李 榮薫 著,永島 広紀 訳
 「歴史通」2010.7『奴隷のいた国、いない国』高山正之
添付写真
 妓生(きしょう、キーセン)と呼ばれる女性。日韓合邦直後ぐらいの写真と思われる。(PD)
 朝鮮宮中内の宴会などで楽技を披露するための女性であるが実質は娼婦。
 
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5秒でわかる「従軍慰安婦の正体」
http://www.youtube.com/watch?v=wpT6mXqIDPk

日韓合邦がもたらした実学



 李朝時代の朝鮮半島は近代的な学校はなく、書道と呼ばれる寺子屋がありました。習字と漢籍素読を教えるだけで実学を一切無視したものでした。日韓合邦当時、その数は約1万6千で、児童総数は14万人で人口の1パーセントに過ぎませんでした。しかし、韓国では教科書に以下のように書いています。

「1905年以降、普成、養正などをはじめ数多くの学校が建てられ、1910年頃には全国の学校数が5000余となった」

 日韓合法の1910年は官立・公立小学校はあわせて百校ほどでしたが、保護国時代に日本が先導して設置した公立小学校がほとんどでした。5000校というのは昭和20年に日本が朝鮮半島から去るときの数字です。1910年に5000校というのは巨大なウソです。

 朝鮮の近代的「小学校」は1895年、当時の旧韓国政府が四校(壮洞、貞洞、桂洞、紬洞)を開校したことに始まります。四校あわせて187名でした。そして後に九校になります。1905年にはいり、日本の「朝鮮教育代行」という一大国家的規模事業がはじまり、1906年「普通学校令」が交付されます。総督府は可能な限り大規模に朝鮮全土に学校を設置する方針を定め、最高・最良の教育をすすめるための教科書や教師を整備していくことにも腐心しました。資金は日本から持ち出し(借款だが大韓帝国は不返済)官立九校、のほか、各道の主要都市で公立50校がまず整備されました。修身、国語(ハングル)、漢文、日語(日本語)・・・がつくられ出版されました。

 日韓合邦後は明治天皇からの恩腸金(おんしきん)1700万の利子の5分の1.5を初等教育に資することとして、これに総督府からの補助金を加えて小学校の増設をしました。
 
 1911年 136校増設
 1912年 107校増設
 1913年  22項増設
 
 1910年に100校だったのが1915年には410校となりました。総経費は115万円でこのうち恩賜金からの利息は2割を占めていました。
 昭和18年(1943年)には官立・公立の小学校は4271校となり、就学児童は日本人9万8169人、朝鮮人194万26人となりました。このほか就学2年の簡易学校は1853校ありました。
 「普通学校」の経費は朝鮮人に対しては負担を軽くし、在鮮日本人は朝鮮人よりも約8倍多く負担しました。
 
 京城帝国大学は1926年に設置されており、戦前の日本のエリート養成9大学のうち、6番目に設立されています。高等教育としては旧制高校にあたる「大学予科」のほか単科大学にあたる「専門学校」を官立で次々設立し、義務教育を目指していたことから師範学校を大幅に増設していきました。
 
 日帝が愚民化政策したなどというのは韓国の巨大なウソです。「学校に行けなかった人が大変多かった」とか「この地域では中学校は1校しかなかった」「朝鮮には京城帝国大学しかなかった」などといい、愚民化政策だといいます。昭和18年時点で就学率は61パーセントだから、39%の人学校にいっていない、ここだけつまめば学校に行けなかった人が多かったと、知らないひとは刷り込まれてしまいます。日韓合邦以前は何パーセントだったのかは言わない。「一校しかない」というのも人口に対して1校が多いか少ないかを述べずに単に、「少ない」という。大阪と名古屋の帝大より京城帝大が早くできたことは伏せて「大学がひとつしかない」という。こうやって事実の一部をつまんで見せて同情してもらおうと被害者ビジネスをやっているわけです。昭和21年には義務教育を実施する予定で、愚民化政策なら義務教育などしません。戦後の韓国の経済発展は日本統治時代の教育の賜物であり、今日の韓国の高い教育レベルも総督府の教育政策があったからです。
 
朴 正煕(パク・チョンヒ)第5〜9代大統領

「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している」


参考文献
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
参考サイト
 WikiPedia「朴 正煕」

添付画像
 京城女子師範学校(PD)


「ひかり」「のぞみ」は朝鮮半島から


 李朝時代の朝鮮半島の交通といえば、道路らしい道路はなく、ソウル内では「カゴ」であり、地方では小型馬の朝鮮馬のみで荷車さえありませんでした。橋梁も永久的なものは希で渡し舟や丸木で渡河していました。
 
 1899年、日本資本の京仁鉄道合資会社が漢江西岸の鷺梁津(ノリャンジン)〜済物浦(さいもっぽ)の鉄道を開通させました。これは朝鮮が鉄道施設権を米国人に売り渡していたものを買い取ったものです。その後、京釜線が全通し、日露戦争時には軍事輸送を目的とした京義線が全通。1910年日韓合邦を機に鉄道の所管は朝鮮総督府の鉄道局に移管されます。これら(京仁、京釜、馬山浦、京義の4線)にかかった費用は6600万円ですべて日本国民の血税です。1906年の大韓帝国の税、印紙税収入は全部で784万円という時代です。この当時の1円が10万円に相当するとすれば6.6兆円という金額になります。
 
 この後、4線からあがる運賃も含めて公債その他の資金を調達しながら、湖南線(1914年)、京元線(1914年)、咸鏡線((1928年)、図們線(1933年)、満浦線(1939年)、平元線(1941年)が敷かれます。なお、朝鮮総督府は私鉄も買収しました。

 昭和7年(1932年)の満州国建国により、日本から朝鮮半島経由での満州への移動がさらに盛んになると、各線列車の増発と増設、スピードアップが一段と進みます。急行旅客列車は「ひかり」「のぞみ」と命名されました。新幹線の名称のルーツは朝鮮半島にあったのですね。
 
 1910年に年20万という乗客数は1944年(昭和19年)には1億637万人になっています。貨物輸送量は90万トンから3120万トンに膨れ上がっています。
 
 昭和15年に弾丸列車構想というのがあり、北九州から壱岐対馬を経て釜山まで海底トンネルでわたり、満州の鉄道に乗り入れ、新京、北京に至るという壮大な構想もありました。

 朝鮮半島の鉄道はこうした黎明期から日本国民の血税と関係者の苦労によって築かれ、壮大なスケールの夢と構想もありました。しかしこの歴史は堅く閉ざされ語られることはありません。韓国の歴史教科書には「電気と鉄道などの事業は朝鮮総督府や日本の大企業がこれをにぎり、彼らの利益を増大させることに利用した」と大嘘が書かれているそうです。



参考文献
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 SAPIO2010.5.26
   「『東京発満州行』大東亜共栄圏を突っ走る幻の『弾丸列車計画を追う』SAPIO編集部
   「世界を駆けた!大日本帝国『鉄路の栄光』SAPIO編集部

添付画像
 京釜線(京城-釜山)鉄道開業式典(PD)

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満州事変と朝鮮人



 1930年、満州には60万人の朝鮮人がおり、その多くは貧農層で、漢人小作人となっていました。この頃は軍閥の張学良が満州を統治していましたが、日本の権益を脅かしはじめ国際法違反を含む排日攻撃を行っていました。その中には当時日本国民であった朝鮮人への迫害があり、1928年〜1930年までシナ人と朝鮮人の間に100件を超える紛争があったといいます。
 1931年2月、国民党会議は朝鮮人の満蒙移住厳禁を決議し、「鮮人駆逐令」によって満州から朝鮮人を追放にかかります。行き場を失った朝鮮人長春から北西約20キロにある万宝山に入植しようとしました。ところが吉林省政府の警官隊は朝鮮人農民の退去を繰り返し求め、7月にはついにシナ人農民が大挙して朝鮮人を襲撃しました。(万宝山事件) この事件と日本軍将校が殺害された中村大尉殺害事件が満州事変の直接の引き金となります。
 
 万宝山事件に朝鮮人は怒り、朝鮮半島全域にシナ人への襲撃が始まりました。昭和6年(1931年)7月5日大阪朝日新聞附録『朝鮮朝日』南鮮版
「衝突、破壊、脅迫、傷人、市内の各所に頻発す シナ人街休業の姿 京城の鮮支人衝突事件」
「【京城】(略)朝鮮人およそ二十名がシナ人を殴打(おうだ)負傷せしめさらに同時刻同所附近のシナ商店を襲い窓ガラスを破壊、九時四十分ごろには府内義州通りにおいてもシナ人一名を殴打負傷させ十時には和泉町では朝鮮人およそ60名がシナ人を襲い、同様殴打負傷せしめ同二十分府内シナ人街西小門枝芸学校前で朝鮮人五百、シナ人凡そ二百名が衝突し、各一名宛ての重傷者を出し、また・・・」
「全市に警官隊配置。シナ人続々避難す 京城(ソウル)ますます騒然」

 朝鮮人のすさまじい怒りの様子が伝えられています。
 
 昭和6年(1931年)9月12日大阪朝日新聞附録『朝鮮朝日』南鮮版
「【京城】中村大尉事件に対して鮮内における内地人側の輿論(よろん)はますます硬化しているが朝鮮人側の輿論は果たして内地人側と同一歩調をとっているか・・・(略)しかし、今なお繰り返されている鮮農圧迫事件に対し我が政府ならびに内地人はあまりにも冷淡ではなかったかとの説をなすものがあり・・・」
 朝鮮人が迫害されていることにたいして内地人は本当に怒っているのか?冷たくないか?という論調の記事がながれています。この頃の「弱腰外交」が背景にあり、それとわかる論調です。「日支懸案370件」に対して抗議するだけで何も手をうてない外交「日本政府=幣原外交恃む(たのむ)にたらず」という論調があり、関東軍に期待が集まります。
 
 9月12日同紙
平壌部隊、著しく緊張 異様の風説も飛ぶ」

 朝鮮軍に動きが出ていますね。この6日後、9月18日柳条湖事件満州事変がはじまります。



参考文献
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政
 SAPIO2010.5/26「朝日新聞<南鮮版>の研究」水間正憲
 「歴史読本」2009.9『万宝山事件』戸部良一
 
関連記事
 満州の日本の権益を否定する国民党  http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21536066.html
 万宝山事件と中村大尉殺害事件 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21555060.html
 
添付画像
 万宝山事件の衝突現場写真(PD)
 
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 1931 年の京城(ソウル)の映像
 http://www.youtube.com/watch?v=j5GegF6XcgE