三・一独立運動の隠された事実



 1919年(大正8年)朝鮮半島大韓帝国初代皇帝高宗の死がさまざまな憶測を呼び、前年の李光洙(イ・グァンス)らによる二・八独立宣言の流れを受けて民族代表33人による独立運動が展開されました。独立万歳運動や万歳事件ともいいます。注意したいのは独立を叫びながらも日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている点です。
 
 この暴動について日本の言論空間が隠し続けていることが多々あります。ひとつは日本人の憲兵6人と警察官2名が殺害されたことで花樹里警察官駐在所で川端豊太郎巡査が石と棍棒で殺害され、耳と鼻をそぎ落とされ、陰具を切断した惨殺事件があったのに裁判は「報復」的なことは一切しなかったことがあげられます。放火などによる役場全壊19、一部破壊29、警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・同分遺所・同駐在所については全壊16、一部破壊29、郵便局の全壊2、一部破壊9、となっており、運動というよりも暴動です。しかし、裁判では死刑も無期懲役もいません。懲役15年以上の実刑になったものもいません。朝鮮固有の拷問も行っておらず、証拠主義に徹して多くの被疑者が無罪放免となっています。
 
 このとき朝鮮半島に住んでいた私の祖父はこの運動を以下のように記しています。
「この運動は幼稚なもので『或る呪文を唱えたえら弾が当たらない』と教えて無知な大衆を騙してマンセー(万歳)、マンセー、と騒がした。初めのうちは殺すまでの事もなかろうと空砲で威嚇したものだから『それ見ろ弾はあたらんぞ』と瞬く間に騒ぎが大きくなったので、やむを得ず先頭の5,6人を射殺したら蜘蛛の子を散らす様に逃げて騒ぎが収まったそうだ」

 運動の指導者らは天道教、仏教、キリスト教の代表者ですから宗教的なもので無知な大衆が扇動されたということでしょう。
 
 この運動の33の代表者のひとり朴煕道は後に近代化を目指す上で朝鮮語の全廃を総督府に申し入れています。前述の李光洙は上海に亡命し、大韓民国臨時政府樹立に加わり独立新聞の編集長に就任しています。帰国後、逮捕されますが起訴されず釈放されています。その後、東亜日報に就職しています。彼は朝鮮近代文学の父と呼ばれており、「朝鮮人を単一なものと考えるのが根本的な誤り」と延べ、「天皇の赤子として日本の国民と考えるべきである」と述べています。また彼は「創氏改名」を強く推奨し、自身は「香山光郎」としました。朝鮮では日韓合邦した頃は民族意識というのはもともと希薄で合邦後に日本語である「民族」が吹き込まれましたが、結果的には帝国主義の時代は国民主義的なもののほうが台頭しやすかったといえます。皇国民となったほうが圧倒的にステータスがあがるからです。

 三・一独立宣言を起草した崔南善(チェ・ナムソン)は逮捕され2年6ヶ月の懲役刑をうけました。仮出所後は朝鮮銀行総裁・美濃部俊吉の後援を得て、雑誌「東明」を刊行し、1924年(大正13年)は「時代日報」の主幹兼社長になります。朝鮮人の文化向上と実力培養は独立に優先する、という論陣を張ります。後に総督府朝鮮史編集委員、中枢院にも選ばれ、昭和12年(1937年)に満州建国大学教授に就任しました。彼は大東亜戦争「世界改造の重大な機会であると同時に人類の『世界』を現出させる機縁」「英米の桎梏(しっこく)に無く、東亜十数億大衆の祈願であり、真に万邦共栄の世界秩序を確立する、アジアの解放戦争」と唱えています。



参考文献
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
 「日本の植民地の真実」黄文雄
参考サイト
 WikiPedia「三・一独立運動

添付画像
 運動の引き金となった高宗の葬儀(PD)
 
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強制連行というウソ


 長年、在日=強制連行で日本につれてこられた人(朝鮮人)たち、というウソがまかり通っており、今年の初めに原口総務相が「自分の意思に反して(日本に)連れてこられた人が地方で投票の権利を持つのは日本の国家として大事なことだ」と述べており、ウソも百回言えばホントになるとつくづく感じたものです。幸い自民党高市早苗議員によって論破され、国会では言うものはいなくなると思いますが、マスコミは報道しないので世間一般ではまだウソを信じている人が多いと思います。


昭和34年(1959年)朝日新聞7月31日付
 在日朝鮮人北朝鮮期間をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったために送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚げに関するいきさつ」について発表した。これによれば在日朝鮮人の総数は約61万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は245人にすぎないとされている」
 日本内地に住んでいた朝鮮人は、
 昭和14年 約100万人
 昭和20年 約200万人

 となっており、戦争中に100万人増加しています。このうち70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別労働者で、残りの30万人は鉱工業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごくわずかです。
 国民徴用令というのは国家総動員法に基づいて、昭和14年(1939年)に制定された日本の法令で、国民の義務です。朝鮮半島に適用したのは昭和19年9月からで、昭和20年8月の終戦までの11ヶ月間実施されました。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は昭和20年3月の下関−釜山間の連絡線の運航が止まるまでのわずか7ヵ月間です。

 終戦後、GHQ朝鮮人の帰国に過剰なほど支援しました。日本の官憲にたいして「全員帰国を達成せよ」と厳しく命じています。私の祖父の記録を見ましても終戦当時、釜山にいましたが、汽車は帰国者の朝鮮人でごった返しており、船で博多につくとテント村ができており、驚いたと書いています。朝鮮人の炭鉱などの労働者で博多で帰国船の順番を待っているのです。また、三原(広島県)の駅で下関行きの朝鮮人送還の臨時列車が到着しており、駅にいた日本人たちと喧嘩になりそうになったことが書かれています。こうして朝鮮人の多くは帰国しましたが、それでも頑固なまでに日本に居残り続けた人たちがおり、その人たちと子孫が現在の在日と言われる人たちです。彼らは自由意思で日本内地に残ったにもかかわらず、特別永住者として特権を持っています。彼らを在日外国人として扱うことを「差別」というのはおかしな話です。



参考文献
 「在日・強制連行の神話」鄭 大均著
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
参考サイト
 原口総務相、特別永住外国人への地方参政権付与に賛同
   http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100114/stt1001142351016-n1.htm
 在日朝鮮人、戦時徴用わずか245人
   http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/367230/
 WikiPedia「国民徴用令」

添付画像
 京城の提灯行列(国書刊行会「望郷 朝鮮」より PD)
 
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朝鮮の財政を救済した日韓合邦




駐韓外交官を務めた米の朝鮮史家グレゴリー・ヘンダーソン
李朝は、もはや経済的破産と崩壊の寸前であった。すでに軍事力はほとんどなく、政権の分裂と内紛で行政はマヒ状態となり、慢性的百姓一揆の気運に脅かされていた」

 大韓帝国を日本が保護国としたとき、財政的には完全に破綻し、冬があける早春には餓死者すら毎年でており、もはや亡国状態、民族の消滅もカウントダウンとなっており、復興しようにも資本も技術もインフラもなく、貨幣制度は前近代のそれでもはや「絶望」と言える状態でした。
 
 1904年(明治37年)に大蔵省主税局長。目賀田種太郎が大韓帝国の財政顧問に就任します。この頃、大韓帝国の歳入は750万円、ちなみにこの頃の台湾の歳入は2542万。本来国家収入であるものが宮内府に入っていたり、腐敗が横行し、御用商人らが宮内府を食い物にしていました。目賀田はまず、政府と宮内府の権限区分に着手します。そして中央政府と地方官庁の年間予算の編成、実行、会計法の励行、財政上の積弊を除去し、金庫、国庫金取り扱い機関の設置、金融制度創設整備の為の農工銀行、金融組合、銀行を救済、手形条例の発布、などなど、その他税制や塩タバコの専売、土地所有権の確保、税関行政・・・などなど近代国家に必要な施策を次々と打ち出します。
 
 大韓帝国の金融は漢城銀行と大韓天一銀行がありましたが、ほとんど個人金貸し業の域を出ておらず、1906年に両行に10万円と24万円を無利子で貸し与えて救済しています。目賀田は朝鮮の貨幣整理のため金本位制を確立し、旧紙幣の引き揚げ、1909年には中央銀行に相当する大韓帝国銀行を設立し、貨幣整理の業務を同行に引き継がせます。
 農工銀行は1906年に朝鮮全体に10行作り日本政府が株式と無利子の貸下金で資本を引き受け、預金も行います。これが農業にとどまらず地方産業を開発、発展せしめることになります。1907年に地方金融組合がスタートし、零細農家にも資本が与えられるようになります。これは昭和16年(1941年)には全朝鮮の約6割の世帯主が組合員となる盛況となりました。

 目賀田の財政・金融手腕は天才的だったといいます。1926年(大正15年)に有賀は他界します。朝鮮殖産銀行頭取の有賀光豊氏の追悼では以下のように述べています。

「ただ財政金融の近代化の基礎だけでなく、産業開発から貿易振興にいたるまで、朝鮮半島開発の基礎作りをした人物であった」

 台湾の近代化の父は後藤新平と言われていますが、韓国近代化の父はこの目賀田種太郎が相当するというのが一般的な評価です。しかし、韓国には目賀田種太郎の銅像はどこにもありません。



参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
参考サイト
 WikiPedia「目賀田種太郎」
 
添付画像
 朝鮮銀行 毎日新聞社「昭和史 別巻1−日本植民地史」より(PD)

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朝鮮半島を産業社会へ変貌させた水力発電



 朝鮮半島は資源は豊かではなく、唯一活用できる資源は「水」でした。日韓合邦後、朝鮮総督府は大規模な水力発電を利用して総合的な国土開発に着手しています。
 
 日本窒素肥料の大実業家、野口遵(のぐち したがう)は昭和3年(1928年)鴨緑江(おうりょくこう)上流を堰きとめ内地にもなかった17万キロワットもの巨大な発電所を作っています。さらにその2年後には20万キロワットの発電所を建設しました。
 発電事業が軌道に乗ると野口は朝鮮窒素株式会社を設置し、電力を利用して空中窒素から硫安(硫酸アンモニウム)を作り、内地へ移出しました。続いて白頭山豆満江、虚川江などにも次々と15万キロワットを確保する水力発電を設けています。鴨緑江流域には義州、雲峰、水豊など7箇所にダムを建設し、巨大な湖を作ることで180万から200万キロワットの出力が可能な大発電所を計画しました。野口は引退のとき、資産の大部分である3000万円(1円を現在の2万円とすると6000億円)文部省の科学進行のためと朝鮮人子弟の教育のために寄付しています。
 
 この電力によって朝鮮半島は工業生産額が急増し、1927年(昭和2年)〜1933年(昭和7年)は3億円台だったのが、1935年(昭和10年)には6億円台、1940年(昭和15年)には18億円を突破し、農業生産に匹敵するまで成長しました。
 
 これらの電力は各家庭にも供給され、1925年(昭和元年)は電灯総数は48万だったのが1939年(昭和14年)には206万個まで増え、1942年(昭和17年)には電灯普及率は全戸数の17.4%までとなりました。
 
 これらの建設コストは2億円(現在の価値で4兆円)ぐらいになり、送電設備を含めるともっとになるでしょう。多くは現在の北朝鮮にあり、日本と北朝鮮が国交を回復するときはこれらを全額弁済させるべきです。ちなみに水豊発電所は60万キロワット発電能力ですが、当時内地のNo.1は千住発電所の12万キロワットでした。いかに規模が大きかったかがわかります。

フランスの人文地理学者ジャーク・ブズー・マサビュオー
「現代の朝鮮人の目には、日本植民地時代の悪い面が、伝統と孤立に対する純然たる侵害として非常に大きく映っているのであるが、その反面、南北朝鮮の国家経済を著しく飛躍させるための基礎は、この時代に築かれたのであり、その成果もまた大きかったと言える。日本は40年ほどの間に厳しいやり方で、自然の脅威にさらされ大きな工業設備を持たない貧しかったこの農業国家を科学的な農業とさまざまな工業、そして活発な貿易を誇る経済の調和のとれた国へと変身させた」


参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
参考サイト
 WikiPedia「野口遵」
 
添付画像
 建設中の水豊ダム 昭和17年 (PD)
 
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 KOREA  韓流 日韓併合前の韓国
 http://www.youtube.com/watch?v=NorHJJ78QMY&NR=1
 
 

日帝が地下資源を略奪したというウソ



日帝は金、銀、鉛、タングステン、石炭など産業に必要な地下資源を略奪した」

 韓国の歴史教科書にはこのように書かれています。これは真っ赤なウソで例えば「金」を日本政府に売却することにより朝鮮は13億円(1円を現在の2万の価値として26兆円)を手にしており、鉱山開発の設備投資により大量の雇用を生み出したのです。
 
 19世紀から20世紀にかけて朝鮮半島は地下資源の豊富さが注目を集めていましたが、資源開発には莫大な設備投資が必要であり、開発を行うと宗主国「清」から入貢を要求されることを懸念したため開発は行っていません。
 朝鮮総督府が本格的に調査すると朝鮮半島は地下資源大国ではないことが判明しました。当時、最も重要なのは鉄鉱石と石炭で分布は一定していませんでした。満州国が建国すると朝鮮半島の資源的価値は薄れていきます。

1910年鉱産額割合
 朝鮮人  4.8%
 日本人 22.6%
 外国人 72.6%
 
1920年鉱産額割合
  
 朝鮮人  0.3%
 日本人 80.X%
 外国人 20.X% 

 こういった数字をあげて日帝が略奪したといっているそうです。しかし、盗掘したわけではなく、政府の採掘補助金によって日本企業が進出したということであり、大規模な資本投下、技術開発を行い、大量の労働者の雇用を生み出したということです。その数は昭和14年には22万人以上となっていました。
 
 「金」は昭和12年の支那事変によって貿易決済のために必要となり、「朝鮮産金五ヵ年計画」が実施されましたが、米英との開戦によって貿易が激減し、金が不要になり、日本政府は金の買取をやめました。これにより朝鮮総督府は1202あった鉱山のうち、123を残して残りはすべて廃鉱にしました。
 「金」の採鉱、精錬には電気が必要で、送電線建設のため日本政府は公債で資金調達しました。その額は5292万円(現在の価値で約1兆円)にのぼります。鉱山開発費も数億円かかり、金の買取代金13億を含めると、全部で約20億円(現在の価値で40兆円)を日本は半島に注ぎ込んだことになります。



参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋

添付画像
 南大門通(現・南大門路)1945年以前 労働経済社「映像が語る日韓併合史」より(PD)

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日韓合邦により守られた人権



 日韓合邦前の朝鮮半島儒教より来る法治より人治であり、賄賂が横行していました。

F・A・マッケンジー「朝鮮の悲劇」
「監獄は呪詛(じゅそ)のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に際しては、一時に数十名の囚人が絞首されてしまい、裁判は売買された」

ホーマー・ハルバート「朝鮮亡滅」
「金次第でどうにでもなり、多額の金を提供するか、裁判官を畏怖させるほどの有力者を後ろ盾に持っていることを見せつけるかした方が、かならず有利な判決にありつけることは、世間一般の常識」

 単なる禁固刑でも監獄の都合で殺してしまうのです。
 死刑の方法もまず脚を砕き、腕と肋骨を折り、そして絹紐で首を絞める、というものです。

アーソン・グレブスト「悲劇の朝鮮」
「こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうという点だ」

 1909年7月に日本は朝鮮半島の司法代行を開始します。このときの予算は131万円。(1円は現在の2万ぐらいとして262億円) そして日韓合邦によって日本の刑法が適用され、法治が行われ、人権、人道が守られるようになります。
 1912年に朝鮮笞刑(ちけい)令が定められ朝鮮人に限って適用しています。いわゆる鞭打ちの刑ですが、これをつまんで差別だだと歪曲する研究者がいるらしい。実際は刑法を適用すると罰金をとられたり、監獄に入ることになり、貧民の犯罪は罰金は全財産を失うことになったり、監獄にはいっている間、働き手がとられて、家族が餓死することになるため、それまでの朝鮮の伝統的な笞刑を代替したに過ぎません。「罰金一円を笞一、懲役一日を笞一」としました。朝鮮の貧しい階級では家族4人、5円あれば一ヶ月食べれました。高額な一円が笞一で済むわけです。しかも笞刑執行前には医師が受刑者の健康を診断しました。笞も李朝時代のものより小さくし、十六歳未満の男児には笞刑を禁じました。李朝時代には姦通罪の女性に対して過酷な笞刑を行っていたのです。
 
 日韓合邦前の監獄は警察と独立しておらず、一坪あたりに15、6人も押し込めるというものでした。そして拷問が行われていました。

中村竹蔵 1907年韓国平理院(最高裁)配属
「平理院では法廷の取調べの際にしばしば拷問を行うことがあったから、たびたび院長に対して之を廃止するように厳重に要求すると、院長は午後遅くなって出勤するようになった。私が退庁するのをまって夜中に依然拷問行うことがわかり・・・」

 日韓合邦により監獄は一坪あたり5人以内に定められ、拷問は禁止されました。1919年には斉藤実総督のもとで440万の巨費を当時監獄の近代化と大拡張を実施し、1922年には一坪あたり2.9人まで改善されました。



参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋

添付画像
 笞刑(PD)

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韓国のサバサバ


 私の祖父は終戦時は陸軍一等兵として釜山(現在の韓国)におり、引揚者収容所で引揚者の世話をしていました。祖父の記録を見ていると米軍が釜山に上陸してくると引揚者収容所の入り口に朝鮮人の青年が入り口に歩哨で立つようになりました。祖父は引揚者のために飯を炊いたりしていましたので、水を汲みに外へでなければならず、歩哨に外へ出してくれというと、「ダメだ」という。そこで賄賂(サバサバという)を渡すと急に態度が変わり自由に出入りが可能になったと書いています。そして「これでは独立した後の朝鮮はサバサバが横行して国の将来が思いやられる」と述べています。実際、歴代大統領がサバサバの人でしたから横行したということですね。ネットを調べると現在でも「サバサバ」は”裏で事を処理する”という意味で使われており、語源は魚の鯖だとか。

 19世紀李朝時代は官僚が腐敗していました。徴兵の代わりに軍布を収めることができていましたが、両班という貴族階級が免除されていくと農民の負担は多くなり、地方官は死者に軍布を賦課したり、幼い子供まで賦課する無理まではじめました。穀物も春に農民に貸与して秋に返済する制度がありましたが、地方の役人は高い利子をつけたり、貸与する穀物をごまかしたりしていました。官吏と地主が結託して隠田を持ち私腹をこやしました。
 官職もカネで買うようになっており、高宗という朝鮮王は歴史上最も賄賂を好んだといわれています。財政が逼迫すると中央では不良通貨が発行され、地方役人は農民から価値のある通貨で税金を取り立て、中央へは不良通貨で納めるなどの不正を行いました。宮廷内では内部抗争が激しく、「朋党の争い」と呼ばれ、暗殺や虐殺が横行していました。

 こうした李朝時代の腐敗は権力闘争を含めて日本統治の法治社会の出現により一掃され近代的国民意識が扶植されました。「醜い韓国人」という本を書いた朴秦赫氏は「あの時代(日本統治)は人々に道義心があり、治安もよかった。今日の韓国社会は治安がひどく悪化した。日本統治時代、人々は規律正しかった」と述べています。
 
 韓国では朴正煕(パク・チョンヒ)大統領(1963 年 - 1979年 日本名:高木正雄)は諸評価ありますが清廉を好み、不労働所得観念や悪性利己主義主張、党派意識といった民族の悪い遺産を克服すべき指導しており、これは日本の教育を受け、日本の軍人精神(日本の陸軍士官学校を3位の成績で卒業(57期))を持っていたためでしょう。

 そうはいっても日本も総理(前職)が「平成の脱税王」と呼ばれているようではダメです。抹殺された歴史を取り返し、かつての日本人の心を取り戻さなければなりませんね。



参考文献
 「親日派のための弁明」金完燮
 「日本の植民地の真実」黄文雄著 
参考サイト
 WikiPedia「朴正煕」
添付画像
 平壌鉄道ホテル 国書刊行会「望郷 朝鮮」より(PD)

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