朝鮮の財政を救済した日韓合邦




駐韓外交官を務めた米の朝鮮史家グレゴリー・ヘンダーソン
李朝は、もはや経済的破産と崩壊の寸前であった。すでに軍事力はほとんどなく、政権の分裂と内紛で行政はマヒ状態となり、慢性的百姓一揆の気運に脅かされていた」

 大韓帝国を日本が保護国としたとき、財政的には完全に破綻し、冬があける早春には餓死者すら毎年でており、もはや亡国状態、民族の消滅もカウントダウンとなっており、復興しようにも資本も技術もインフラもなく、貨幣制度は前近代のそれでもはや「絶望」と言える状態でした。
 
 1904年(明治37年)に大蔵省主税局長。目賀田種太郎が大韓帝国の財政顧問に就任します。この頃、大韓帝国の歳入は750万円、ちなみにこの頃の台湾の歳入は2542万。本来国家収入であるものが宮内府に入っていたり、腐敗が横行し、御用商人らが宮内府を食い物にしていました。目賀田はまず、政府と宮内府の権限区分に着手します。そして中央政府と地方官庁の年間予算の編成、実行、会計法の励行、財政上の積弊を除去し、金庫、国庫金取り扱い機関の設置、金融制度創設整備の為の農工銀行、金融組合、銀行を救済、手形条例の発布、などなど、その他税制や塩タバコの専売、土地所有権の確保、税関行政・・・などなど近代国家に必要な施策を次々と打ち出します。
 
 大韓帝国の金融は漢城銀行と大韓天一銀行がありましたが、ほとんど個人金貸し業の域を出ておらず、1906年に両行に10万円と24万円を無利子で貸し与えて救済しています。目賀田は朝鮮の貨幣整理のため金本位制を確立し、旧紙幣の引き揚げ、1909年には中央銀行に相当する大韓帝国銀行を設立し、貨幣整理の業務を同行に引き継がせます。
 農工銀行は1906年に朝鮮全体に10行作り日本政府が株式と無利子の貸下金で資本を引き受け、預金も行います。これが農業にとどまらず地方産業を開発、発展せしめることになります。1907年に地方金融組合がスタートし、零細農家にも資本が与えられるようになります。これは昭和16年(1941年)には全朝鮮の約6割の世帯主が組合員となる盛況となりました。

 目賀田の財政・金融手腕は天才的だったといいます。1926年(大正15年)に有賀は他界します。朝鮮殖産銀行頭取の有賀光豊氏の追悼では以下のように述べています。

「ただ財政金融の近代化の基礎だけでなく、産業開発から貿易振興にいたるまで、朝鮮半島開発の基礎作りをした人物であった」

 台湾の近代化の父は後藤新平と言われていますが、韓国近代化の父はこの目賀田種太郎が相当するというのが一般的な評価です。しかし、韓国には目賀田種太郎の銅像はどこにもありません。



参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「歴史を捏造する韓国」中川八洋
参考サイト
 WikiPedia「目賀田種太郎」
 
添付画像
 朝鮮銀行 毎日新聞社「昭和史 別巻1−日本植民地史」より(PD)

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