沖縄のアメリカ世からまた大和ぬ世

祖国復帰。


「唐ぬ世(ゆー)から大和ぬ世、 大和ぬ世からアメリカ世、 アメリカ世からまた大和ぬ世、 ひるまさ変わゆる くぬ沖縄」

 これはシンガーソングライターの佐渡山豊さんが作詞作曲した学曲「ドゥチュイムニイ」の一節です。支配者がどんどん変わるが自分たち市民は何も変わらない沖縄の歴史を語っています。

 大東亜戦争後、沖縄は「アメリカ世」となり、昭和35年(1960年)ぐらいまでは親米ムードでした。そうした中でも日本人としてのアイデンティティーを保ち、根底では反米思想を持っていました。
 昭和22年(1947年)、「(戦争で)荒れた戦禍を取り戻すには教育にしかず」を合言葉に「沖縄教育連合会」が結成されました。昭和27年(1952年)には「沖縄教職員会」と改称されました。

 元教職員会メンバー
「我々は日本人なのだから日本の教科書を使おうという親睦団体だった。だから、そもそも根底は反米思想だった」

 県立高校校長経験者の男性
「我々にとって日の丸は国旗で、『君が代』は国歌。今日職員全員が率先して日の丸を掲揚し、君が代を斉唱したものだ。日の丸のない家庭には教職員会で販売し、掲揚する竿のない家庭には提供した。今日職員全員が日の丸と君が代を尊重し、本土復帰、否、祖国復帰を目指した。日本人としての気概を育てようとした」

 昭和35年(1960年)、「沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)」が結成されました。この年に沖縄を訪問したアイゼンハワー大統領に対し祖国復帰を訴えるデモを敢行しました。全島の各家庭に日の丸が翻り沿道には日の丸の旗を持った住民が幾重にも列を作り、祖国復帰の意思表示を全国、全世界に発信しました。

 ところが昭和40年代に入ると様相が変わってきました。社共や総評、全学連などの左翼陣営が沖縄に戦力を集中して、「米軍基地完全撤去を伴う沖縄全面返還」「安保破棄」「保守政権打倒」を叫び始めました。本土でできなかった闘争を沖縄で展開し始めたのです。祖国復帰を目指すオール沖縄闘争だったのに革命闘争が展開されるようになってきたのです。昭和46年(1971年)、教職員会は解散に追い込まれ、沖教祖が結成されました。国旗掲揚、国歌斉唱運動を推進していた保守派は完全に追放され、極左グループが指導権を掌握したのです。彼らは学校教育で皇室を批判し、文部省唱歌を禁止するなどして従来あった日本の道徳、文化のすべてを否定しました。さらに沖縄史の改竄(かいざん)をはじめ、琉球王国を極端に美化し、沖縄戦時の日本軍を極悪非道に描き始めました。

 昭和44年(1969年)、佐藤首相、ニクソン首相による沖縄返還へ向けての日米共同声明が出されました。極左陣営は「米軍基地が残る欺瞞的返還」と闘争をエスカレートさせます。この頃、沖縄財界は米軍統治時代の一国二制度的な既得権に固執して、祖国復帰に反対していましたが、昭和46年(1971年)のニクソンショックにより沖縄の通貨米ドルが下落した変動相場制に移行すると財界による復帰阻止活動は急速にトーンダウンしました。祖国復帰に絶好の機会が巡ってきました。

 昭和46年(1971年)10月31日、那覇市与儀公園で「沖縄返還協定批准貫徹県民大会」が開かれました。
「今すぐ帰ろう もう二度とチャンスはない」「批准阻止では復帰はできない」「返還協定粉砕は自殺行為である」「今こそ、心を一つにして祖国へ帰ろう」

この県民大会仕掛け人の金城テルさん(85歳)は当時をこう振り返っています。
「当時のマスコミの論調はまるで沖縄県民全員が返還協定に反対しているような印象を与えていた。でも、それはつくられたものだった。大多数の県民が返還協定の早期批准を強く望んでいることを訴えるために立ち上がったのです」

 金城さんは街頭で批准の貫徹をアピールするためビラを配布して、ポスターも貼りました。しかし、ポスターは何度も剥がされました。調べてみると、剥がしているのは返還協定批准に反対する我が子の担任だったといいます。金城さんら批准貫徹県民大会実行委員会の代表団は上京し、決議と請願書を提出し、政府や国会関係筋に早急な復帰を訴えました。

 11月24日、沖縄返還協定は衆議院強行採決され、翌昭和47年(1972年)5月15日が復帰の日に決定しました。

 元教員「父母の会」で復帰運動に携わってきた仲村俊子さん
琉球政府のもとで、我々は祖国日本が懐かしかった。せめて日の丸を掲げさせて欲しいという運動が始まり、当時勤めていた中学校に日の丸が届いた時は胸が熱くなった」
「その後、教職員会の婦人部大会で『現在の日本に復帰するのではないから復帰は口にするな。安保反対だけを言え』と指示されたことがある。しかし現実に沖縄の復帰をなしとげたのは、沖縄返還協定批准貫徹委員会の運動だった」

 仲村俊子さんは今年89歳。復帰40年の今年5月15日に「祖国復帰」を誓った思い出の地、那覇市与儀公園に立ち寄りこう語りました。
「真の意味で日本人になれた日。復帰できて本当に良かったと実感している」



参考文献
 角川学芸出版「報道されない沖縄」宮本雅史(著)
 WAC「誰も語れなかった沖縄の真実」恵隆之介(著)
 読売新聞朝刊(平成24年5月16日)34面 沖縄「祖国」への情熱
添付画像
 日本復帰署名運動1954年10月(PD)

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5・12沖縄祖国復帰40周年祝賀パレード(市役所前)
http://www.youtube.com/watch?v=9fMqvLtzano