沖縄の大和ぬ世からアメリカ世

アメリカ世はひどいことばかりだったのか?


「唐ぬ世(ゆー)から大和ぬ世、 大和ぬ世からアメリカ世、 アメリカ世からまた大和ぬ世、 ひるまさ変わゆる くぬ沖縄」

 これはシンガーソングライターの佐渡山豊さんが作詞作曲した学曲「ドゥチュイムニイ」の一節です。支配者がどんどん変わるが自分たち市民は何も変わらない沖縄の歴史を語っています。

 大東亜戦争で日本が敗戦すると沖縄は「アメリカ世」となりました。「アメリカ世」は昭和47年(1972年)5月15日の祖国復帰まで続くことになります。

 大東亜戦争沖縄戦後は住民も捕虜扱いとなり、収容所に入れられました。収容所といっても一定地域に有刺鉄線を貼り、テントやバラックを縦、砂の地面に寝る生活でした。トイレもただ溝が掘ってあるだけです。そこで男女の別なく用を足しました。衛生環境は悪く伝染病が蔓延。マラリア患者は昭和21年(1946年)に患者17万人、翌22年には16万人、死者は毎年1000人を超えました。
 収容所間の通行は制限され、外に出たものは射殺されたり、女性が強姦される事件が頻発しました。収容所生活は徐々に解除されていきましたが、既に米軍は軍用地を囲い込んでおり、先祖代々の土地に帰れない人も多数いました。昭和22年(1947年)3月までは隣の村へ行くことすら禁止され、夜間外出が解かれるのは更にかかりました。
 基地強化のため「銃剣とブルドーザー」といわれる暴力的な土地接収、相次ぐ米軍の犯罪に対して沖縄県民は「日本の魂と誇りを堅持して戦い抜こう」というスローガンで「島ぐるみ闘争」に動きました。

 「アメリカ世」はひどいことばかりだった・・・こんなイメージが現在定着していますが、そうだったのか?

 那覇に住む85歳女性
「食べることについては決して苦しいとか、みじめだという思いはしていない。缶詰や卵、ソーセージ、ハムなどの配給があって豊富だった。私の姑も、汁物にソーセージの大きなかたまりを入れて食べていた。特別裕福というわけではなかった私の家庭がそんな状況だったから、ほとんどの家庭も同じだったと思う。軍での作業が盛んだったので、軍に勤めている人達は、給料も高く、もっと豊かだった」

 60歳代の元保守系議員
「戦前の日本政府は、沖縄を飛び越えて、台湾の経済振興に力を入れていた。だから、それまでの沖縄は貧しく、裸足で、食べるものといえば芋。米軍が駐留して基地建設が始まると、基地特需で一挙に人口が増えた。米軍が統治している間は、戦前では全く想像できなかった経済振興が展開された。米軍が駐留して初めて本格的に国土が造られた。やっと飯を食べられるようになったと思った人も多かったはずで、経済的には良かったという年配者も多い」

 昭和24年(1949年)から25年にかけて沖縄の軍政府の長官を務めたシーツ陸軍少将が「自ら破壊した沖縄を自らの手で再建復興する」と宣言し、ガリオア・エアロ基金(占領地域救済政府基金、占領地域経済復興基金)を導入して沖縄経済を復興させました。「シーツ善政」と呼ばれるものです。シーツ長官が沖縄を去る時、市民の間から留任運動がおきたほどだといいます。

 昭和32年(1957年)、チャールズ・M・ウイラー博士が沖縄に赴任し、伝染病の徹底撲滅に乗り出しました。強力殺虫剤を空中と陸上から全島一斉に噴霧し、発生源になる水たまりや池にも薬品を投入しました。この結果5年後には石垣島はおろか沖縄列島からマラリアを完全撲滅し、有史以来、罹患者ゼロ、死亡者ゼロとなっています。
 このほか、医療制度の充実や通貨経済の安定化、基地の建設だけでなく、幹線道路の施設や火力発電所の建設し、琉球大学を設立しました。昭和30年頃からの第二次基地建設ブームは「銃剣とブルドーザー」ばかりが強調されますが、貧しい本島北部では基地の誘致合戦が繰り広げられました。

 芦田均自民党外務委員長(昭和31年当時)
「沖縄住民はかつて麻袋をまとい、裸足で歩いていたが、いまでは洋服と靴の生活に直り、村に舗装道路ができ、小学校も立派になったのはアメリカの力だ」「米国のおかげで沖縄住民の生活は向上した。日本の統治ではこうはいかなかっただろう」

 米軍との関係も悪いことばかり印象づけられていますが、沖縄本島勝連半島沖に浮かぶ浜比嘉島(はまひがじま)では、島の復興に尽力した海兵隊シェリー司令官の慰霊碑が建立されています。島民と海兵隊のつながりは深く、島では語り継がれています。

 うるま市勝連浜区、新里義輝区長
海兵隊との交流は戦後すぐ始まった。海兵隊員は、毎週土曜日、木材やペンキなどの材料を持って島に来て、家を建てたり学校を修理したりして、日曜日の夕方帰って行った。ドラム缶でお風呂を沸かして島民を入れてくれたり、台風で壊れたトイレを修理してくれたりしたこともあったらしい。発電機を設置して家庭と送電線を結び、電気を使えるようにもしてくれた。住民との交流はみるみるうちに深まっていったと聞いている」

 勝連浜区の女性職員
「小学校2年生の頃、米兵がサンタクロースの格好をして学校に来て、あめやおもちゃをプレゼントしてくれた。それからは毎年心待ちにするようになり、米兵に親しみを感じたのを覚えている」

 ご都合主義のアメリカなので、やることには表裏あると思いますが、善意が全くないというわけではないですし、人と人との交流で"まごころ"は通じ合うものです。「アメリカ世」は良いこともあったし、悪いこともあったということでしょう。沖縄についてはイデオロギーで物事が語られますが、良いものは良いと評価しようではありませんか。



参考文献
 角川学芸出版「報道されない沖縄」宮本雅史(著)
 WAC「誰も語れなかった沖縄の真実」恵隆之介(著)
 小学館「沖縄論」小林よしのり(著)

添付画像
 浜比嘉島(PD)

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