ペルシャ湾の軍艦旗

 東日本大震災の人命救助において大活躍する自衛隊自衛隊を応援、感謝する声は大きいです。戦後、自衛隊が注目される転換となったのは湾岸戦争ペルシャ湾における掃海部隊の活躍があったからかもしれません。


 私は以前ゴルフをやっており、現在はやっていませんが、「湾岸戦争ゲーム」といういわゆるニギリというのがあるのを知りました。1、アメリカ 2、フセイン、3、イギリス、4、日本、というもので、どうやら日本は「カネだけ出す」という位置づけのルールのようです。

 平成2年(1990年)の湾岸戦争イラククウェート侵攻)では日本は自衛隊憲法の制約で出せないため、金だけ出すとということになり、批判が内外にありました。クウェート政府は日本に感謝しませんでした。クウェート政府というより、国際社会は人的貢献がないと評価しないものなのです。湾岸戦争後、クウェート政府は「ワシントン・ポスト」紙の全面を使って協力各国に謝意を表しましたが、その中に日本の国旗はありませんでした。
 湾岸戦争の復興の機器資材は貢献度に応じて調達先など優先的に割り振りましたが、130億ドル(当時、約1兆5000億円)を支払った日本に対する評価は惨めなもので、小さな船1隻を出したノルウェーやわずか数人の看護兵を出したアジアの某国よりも低いものでした。「日本はGHQ憲法九条があるので云々」・・・世界はそんなこと知りません。そんなこと言ったらアホと思われます。

 しかし、その後、平成3年、日本は英、仏、独、伊とともに海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣し、機雷を取り除き、さらにエジプト政府の要請を得て日本単独でカフジ沖も掃海しています。機雷はラジコンで爆破できないものが多数あり、自衛隊員の水中処分隊員が手作業爆破準備したとのことで、これは命がけの作業です。この後、クウェート政府は日本国旗の入った記念切手を発行し、読売新聞に「心からありがとう クウェートから日本の皆様へ」と題する全ページ広告を掲載して日本に謝意を表しています。

 ペルシャ湾に派遣した海上自衛隊の司令官、落合元海将補(当時、一佐)はあの沖縄戦の海軍司令官、大田実少将の三男です。「沖縄県民斯く戦へり」で有名でしょう。掃海部隊が現地入りしたとき、ペルシャ湾の沿岸諸国の間では「湾岸の復興に貢献してくれた国に感謝する」ということで、背中に湾岸の復興に貢献した国の国旗が描かれたTシャツが売られ、約30カ国に及ぶ派遣艦隊の乗員たちは、自国の国旗が描かれたTシャツを着て、繁華街を大きな顔で歩き回っていましたが、130億ドルの巨費を支払っていた日本の日の丸はその中にありませんでした。落合一佐は苦い思いを味わいましたが、日本の掃海部隊の活躍が知られるようになってくると、Tシャツに日の丸が見られるようになりました。

落合一佐「資金提供のみの協力と、実際に現地にやってきて作業に参加する協力との差を、つくづく思い知らされた」

 当初はカネだけでしたが、海上自衛隊の命をかけた活躍により、日本は復権しました。それなのに、ゴルフの湾岸戦争ゲームはいったいどうして、カネだけ出したことになっているのか。ひとつはマスコミが報道したがらなかったというのがあるでしょう。マスコミは戦後ずっとGHQのプレスコードに縛られています。軍を称賛してはダメなんです。もうひとつは日本人が自虐に親しむ国民性になってしまったことがあげられます。これもGHQによる自虐史観の植え付けというマインドコントロールの影響がずっと残っているからでしょう。それでも掃海部隊が日本を離れて2ヶ月余りもするとさすがにマスコミは取材しにやってきて、日本テレビは「追跡」という番組で報道しました。掃海部隊が凱旋したとき、その様子を朝日、読売、毎日がヘリコプターで取材しました。出発時には派遣反対派の運動が大きかったものの、帰還時には様子が随分違ったといいます。広島の呉に掃海部隊艦艇6隻が姿を現すと、出迎えのフェリーには「歓迎、尊い任務に心から感謝します」という横断幕が張られ、船上から400人が日の丸を振って迎えました。呉のFバースに近づくと騒がしいので、また何か反対を叫んでいるのかと思ったら「ご苦労様でした。お疲れ様でした」と迎えてくれたといいます。



参考文献
 光人社ペルシャ湾軍艦旗」碇義朗(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人高山正之(共著)
参考サイト
 WikiPedia自衛隊ペルシャ湾派遣」

添付画像
 機雷の爆破処分と見守る掃海艇
  海上自衛隊掃海隊群ホームページ 掃海部隊の歴史より http://www.mod.go.jp/msdf/mf/rekisi.html

広島ブログ クリックで応援お願いします。

軍艦行進曲【海上自衛隊
http://www.youtube.com/watch?v=oZNnEiVxGUs