朝鮮の独立を指導した日本

 日本は韓国の独立を支持していました。


 19世紀末の朝鮮の独立運動家といえば金玉均(キム・オッキュン)朴泳孝(ぼくえいこう/パク・ヨンヒョ)らの開化党があげられるでしょう。彼らは両班といわれる貴族出身のエリートです。金玉均は日本の実情をつかむことに大きな熱意を燃やし、国王(高宗)に自らを日本に派遣するよう働きかけたといいます。1882年(明治15年)その願いがかない、金玉均、徐光範が日本を訪れます。金玉均は博多、下関、神戸、大阪、としばし滞在しながら京都に入り、神戸から汽船で横浜へいき、汽車で東京へ行きました。地方裁判所や地方議会、小中学校、師範学校、電信施設などを見学し、練兵場、印刷所、建設会社などを訪れています。東京三田の福沢諭吉を訪問し、この見たを拠点にさまざまな人物と会い、意見を交換し、政治、軍事、経済にわたる主要施設に足繁く通いつめました。
 
 同年に壬午軍乱が勃発して、いったん帰国した金玉均は陳謝の一行として再び日本へ来ています。このとき、日本の新聞は金玉均に注目して多くの記事がかかれ中には人格攻撃する記事もあったといいます。福沢諭吉は「時事新報」の社説で金玉均の擁護を行います。
 
 金玉均福沢諭吉の影響を強く受け「独立・自立の真の意義」を悟りました。
 田保橋潔氏「近代日鮮関係の研究」
福沢諭吉およびその門下が、近代朝鮮の政治文化に与えた影響はすこぶる大きい・・・福沢は彼らに政治学の初歩を教え、全世界の文明国は、日本初め完全な主権を有するが、ひとり朝鮮は2000年の文化を有しつつ、老大国の蕃属に甘んずる実情を理解せしめた。福沢の教えを受けた朴泳孝・金玉均は初めて独立・自主の真の意義を悟り、これが実現に邁進するに至ったといっても過言ではないであろう」

 しかし、金玉均がこうした独立・自主、近代化を学んでも李朝の中で腕をふるう場はなく、理解もされませんでした。また、日本の朝鮮在住日本公使・竹添進一郎も開化党を理解していませんでした。それでも福沢諭吉の門下の井上角五郎の努力によって「漢城旬報」という朝鮮初の新聞を発行するに至ります。
 その後、金玉均は税関収入の不正を見抜き、李朝の顧問のメルレンドルフを追求したため、恨みを買います。
 
メルレンドルフが李朝閔妃閣僚へ
「朝鮮の害を取り除きたいのならば、当五銭貨は問題ではない。なにかと君主にあざむく諸君の害をなすのは唯一・金玉均だけではないか。諸君はどういうわけで害のもとを取り除こうとはせずに末のほうをおさめようとするのか」

 こうして、李朝閔妃勢力各派は連合して金玉均を攻撃することになります。四面楚歌となった金玉均はいったん引き下がります。そのうち、日本の陸軍戸山学校に留学していた仲間が続々と帰国し、金玉均邸でひそかに会合を持つようになりました。
 この頃の日本政府の方針として、開化党を積極支持することはなく、竹添公使も金玉均とことごとく対立していました。万一のときには清と戦争になるからです。まだこの頃、日本は清と戦うほどの力はありませんでした。しかし、清とフランスがベトナムを巡って対立してくると政府の方針は一変することになり、その追い風に乗り、甲申政変が勃発しました。清の属国だった朝鮮に歴史的瞬間が訪れたのです。



参考文献
 「大東亜戦争への道」中村粲
 「韓国併合への道」呉善花
 「親日派のための弁明」金完燮
添付画像
 福沢諭吉(PD)
 
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<付録>---------------------------
1862 壬戌民乱 37件の暴動・・・安東金氏政権から大院君への政権交代
1864 東学の崔濟愚が処刑される
1882 壬午軍乱・・・興宣大院君が清へ連れ去られ、閔氏一族清への事大政策へ
1883 閔妃一派が「当五銭」を発行
1884 甲申政変・・・金玉均らが計画したクーデター
1885 天津条約
1892 伸寃運動
1893 65件の農民反乱・・・布教の自由を要求
1894 古阜事件・・・甲午農民戦争へ/日清戦争金玉均暗殺される/全州和約・・・全羅道コミューン/甲午政変・・・日本軍景福宮を攻撃、高宗と閔妃監禁、革命政府樹立(金弘集)、朴泳孝が革命政府に加わり連立/2次蜂起農民軍と日本軍が衝突(大院君と李筇鎔の扇動)
1895 下関条約/三国干渉/乙未事変・・・閔妃暗殺 再び革命政府組閣
1896 高宗がロシア公使館へ逃げる/高宗の命令により金弘集殺害さる/李完用独立協会=万民共同会を通じて市民運動/高宗が皇帝へ即位/朴泳孝も独立協会へ
1897 大韓帝国へ・・・高宗は皇国協会
1901 東京で孫秉熙と朴泳孝が偶然会う
1903 李容九ら日本から半島へ潜入
1904 進歩会結成/日露宣戦布告/大韓帝国と日韓議定書/維新会結成/一進会結成
1905 ポーツマス条約/乙巳保護条約・・・一進会、外交権を日本に委任せよと宣言書、大規模デモ
1906 統監府初代統監就任・伊藤博文漢城で民衆に歓迎される
1907 ハーグ密使で高宗が退位 => 一部軍人と一進会&日本軍が交戦
1909 日韓合邦を日本で適当な時期にと日本政府決定/伊藤博文暗殺/一進会による韓日合邦上奏文・・・李完用は純宗にはあげずに握りつぶした
1910 日韓併合条約