朝鮮半島開国後の維新勢力

 朝鮮半島維新の歴史。


 歴史学者アーノルド・トインビーは文明と文明の接触過程を「挑戦」と「応戦」とし、強大な文明は挑戦されたとき、うまく応戦した文明は生き残り、うまく応戦できなかった文明は消滅するとしています。ソウル大学教授の李 栄薫(イ・ヨンフン)氏は19世紀の日本と韓国では日本の明治維新はうまく応戦できたが、李朝はうまく応戦できなかったと述べています。金玉均(キム・オッキュン)ら開化派の力はあまりにも弱すぎ、李朝が古い文明の原理にあまりにも深く固執したため、と言っています。
 
 韓国で文明に応戦する勢力は金玉均、朴泳孝(ぼくえいこう/パク・ヨンヒョ)らの開化党があり、1884年にクーデターを起こし李朝閔妃政権を打倒します。しかし、すぐ清国軍がやってきて鎮圧されてしまいます。日本軍は一個大隊しかなく撤退。朝鮮革命軍は壊滅し、金玉均、朴泳孝は日本へ亡命します。(甲申政変)
 
 1894年、金玉均閔妃の放った刺客に暗殺されます。金玉均の死のすぐ後に甲午農民戦争起こり、清国の出兵にともない、日本軍が出兵し、甲午政変によって革命政府樹立が樹立していますから、金玉均の死は実に残念です。彼が生きていれば日清戦争後に安定した独立政権を保持できたかもしれません。
 日清戦争で日本は清国に朝鮮の独立を認めさせたもののすぐ後に三国干渉がおこり、再び閔妃一派が勢力を持ち始め開化派はあせり、閔妃を殺害しますが(乙未事変)、皇帝の高宗はロシア大使館に逃げ込んだため、こんどはロシアが介入するようになります。高宗は革命派の金弘集らを武装警官によって逮捕します。金弘集らは群集によって撲殺され、食われました!?ホントに食ったんです。
 
 韓国は開化派と呼ばれる人たちだけでなく、東学党という農民を中心とする勢力がありましたが、宗教色が強く開化派とは連携できなかったのと、東学党は当初、やみくもに日本排斥に動いていて挫折したというのがあります。ところが、この東学党の3世教主である孫秉熙(ソン・ビョンヒ)が1901年に開化派の朴泳孝らと東京で遭遇するという偶然があり、交流が始められます。ここより二つの「文明に応戦する」勢力がひとつの勢力になる方向へ向かっていくことになりました。そして日本が日露戦争に突入すると彼らは日本を選び、日本を支援することになります。
 
 なにかとこうした韓国の維新期には日本が出てきて、それを悪者に仕立てあげる歴史の捏造がありますが、日本の明治維新を見ても外国勢力というのは介入しており、西洋文明と日本文明の接触ですから当然のことです。日本には英、仏が中心になって介入してきています。韓国でも同じように宗主国である清、南下を目指すロシア、まだ弱小国だった日本が大国の侵略を抑えるために介入したということなのです。



参考文献
 「大韓民国の物語」李 栄薫著
 「親日派のための弁明」金完燮
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
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添付画像
 孫秉熙(PD)

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The Korean File of Korea under Japanese rule 日韓併合の真実
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