閔妃は国母ではない


 閔妃(ミンビ、びんぴ)は李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃です。高宗の父、大院君が親戚の娘である閔妃を選び、王妃にしたのですが、とんだ誤算で閔妃は義兄の閔升鎬と組んで舅である大院君を権力から追い出し、実権を握ることになります。大院君は隠居。大院君系列の人々は追放・流刑・処刑等となります。この後、1875年に江華島事件が起こり翌年に日朝修好条規が結ばれ、李朝と日本の間に正式な国交が結ばれます。
 しかし、閔妃と大院君の抗争は続き、1882年壬午軍乱により大院君が再び政権を奪取、しかし、閔妃は清に援軍を求め、再び大院君を追放。1884年には金玉均、朴泳孝、徐載弼ら開化党メンバーが大院君を報じてクーデターを決行。しかし、またまた閔妃は清国軍に援軍を求め、政権を取り返します。そして日清戦争を経て、1895年乙未事変がおこり、訓練隊の禹範善によって殺害されます。

 この閔妃は韓国では「慈悲深い国母」「悲劇の皇后」と信じられている?ようです。実際は一族の栄達のために国費を浪費し、李朝を亡国に導いた張本人です。朝鮮の民主化、独立を推進しようとした金玉均に刺客を放って殺害し、その墓を暴いて四股を切断し打ち捨てました。
 閔妃はさらに、ロシアに金鉱の採掘権、石炭採掘権、森林伐採権を売り飛ばし、米、独、仏、英にも資源の採掘権、鉄道建設権を切り売りし、贅沢三昧の暮らしに充てていたのです。これを買い戻して朝鮮を列強の干渉から守ったのは、もちろん日本です。
 閔妃は死後、大院君の提言で 身分を剥奪され平民に格下げされました。しかし、その後、特命全権公使井上馨の尽力によって「明成皇后」という贈り皇族に戻しています。

 1970年代あたりまでは韓国人も閔妃の真の姿を知っていたようですが、その後は「慈悲深い国母」のイメージに180度転換しています。日本でも昨年、テレ朝報道ステーションがぶっとんだ報道していた通りにおかしなことになってきています。韓国でも50歳以上の年配の人は不思議に思っているかもしれません。韓国人ジャーナリストの金完燮(キム・ワンソプ)は閔妃のことを、朝鮮を滅ぼした亡国の元凶であり、西太后と肩を並べる人物となどと評論したところ、ソウル中央地裁から名誉毀損として閔妃遺族らにそれぞれ1000万ウォンを支払うよう命じられる判決が出ています。

 今年は日韓併合100年。韓国の捏造、歪曲の自尊史が旋風を巻き起こしそうな予感がしています。日本はそのようなものに付き合う必要はありません。



参考文献
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 オークラ出版反日マスコミの真実2010」『やってくる閔妃ウェーブを迎撃せよ』若杉大

参考サイト
 WikiPedia閔妃

添付画像
 景福宮慶会楼(1906年頃)(PD)

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