クーデター決行 〜 甲申政変

厳冬のクーデター。悲劇のヒーロー・金玉均


 19世紀末、日本に学び、朝鮮の急進的な改革を目指す李朝の外務官僚・金玉均(キム・オッキュン)は閔妃勢力各派の攻撃にあい、四面楚歌の状況になり、引き下がります。日本の在朝公使・竹添進一郎(たけぞえ・しんいちろう)も金玉均ら開化党には冷たく接していました。
 1884年(明治17年)5月、清国がベトナムをめぐってフランスとの対立を深め、朝鮮在住の清国軍の半数が本国に異動になります。これを契機に日本政府は金玉均ら独立派を支持する方針に転換します。清との紛争になれば日本はまだ清と戦う力はありませんでしたが、好機が到来したということです。朝鮮が清から離れ、しっかり独立してもらうことが日本にとっての国益だったわけです。
 日本政府の方針転換を知らない金玉均は竹添公使に以下のような怒りをぶつけます。

「あなたから理由なしに疑われ、そのために私の計画はことごとく敗退させられた」

 竹添公使は反論せず「もし他国が貴国の改革に賛成し援助をしようとしたら、君はどうするか」
 
 金「私は3年前から、わが国が独立して旧習を変革するために日本に手を借りる以外ない、と心に決し、そのために日夜努力を続けてきた。しかし、貴国政府の変幻ぶり、軟弱ぶりのために、わが党ははなはだしい痛恨を残すに至っている。しかるに、公使のいまの発言は、いったい何を言おうとしているのかわからない」
 
 竹添「およそ国の政策というものは時に従って変化し、勢いに応じて動くものだ。必ずしもひとつのところにとどまっているものではない」
 
 金玉均は日本政府の方針変更を知り、クーデターのアウトラインを計画し、米公使や英領事とも会い、クーデターが起こった場合の他国の出方を探ります。国王の高宗にそれとなく打診し、高宗は暗黙の承諾を与えたといいます。開化党100名と竹添公使率いる150の日本兵はその日に向けて着々と準備しました。
 
 1884年(明治17年)12月4日、郵政局開局の祝宴の日にクーデターを決行。開化党、日本兵が王宮への道路の要所を固め、金玉均は「一大事発生」と声を張り上げ王宮に入り、国王に「郵政局に変乱がおき、暴徒らが王宮に向かっているため、至急、正殿から景祐宮に移るよう奉上し、日本公使に保護を依頼するよう奉上し、親書を受け取ります。まもなく閣僚たちが王宮に駆けつけてきますが、開化党により殺害されました。
 12月5日、開化党は「朝報」をもって新政府樹立と閣僚の氏名を国民に公表し、ソウル駐在の各国代表にもその旨通知しました。
 12月6日、政府の新要領が発表になります。ここには清国からの主権独立、身分制度の撤廃、税制改革、警察制度の新設、行政機構の改編など近代的な国家を作り上げるための措置が含まれていました。残念ながらこの政権は3日天下となりましたが、朝鮮半島有史以来、はじめて独立した主権国家が誕生したわけで、歴史的な出来事です。現在の韓国では金玉均親日派国賊という意味)といわれていますが、大韓民国は連合国から与えられた国家であり、自ら主導し独立を勝ち得た金玉均の光がまぶしすぎて消し去りたいのでしょう。



参考文献
 「大東亜戦争への道」中村粲
 「韓国併合への道」呉善花
 「親日派のための弁明」金完燮
参考サイト
 コトバンク 竹添進一郎【たけぞえ・しんいちろう】 http://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E6%B7%BB%E9%80%B2%E4%B8%80%E9%83%8E

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朝鮮の維新志士 Kim Ok-gyun
http://www.youtube.com/watch?v=OKiawHiNuWA