クーデター失敗 〜 甲申政変

挫折し暗殺された悲劇のヒーロー・金玉均


 1884年(明治17年)12月4日、金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)・朴泳孝(ぼく えいこう、パク・ヨンヒョ、日本名 山崎 永春)・徐載弼(ソ・ジェピル)ら開化党によってクーデターが決行され、新政権が樹立されました。朝鮮半島有史初の主権国家が誕生しました。
 金玉均は防衛体制を整えるため、武器弾薬庫から武器を運ばせました。ところが、銃も剣もまったく手入れがなされておらず、さびだらけでまずはここから掃除と修理に取り掛かります。事情を知らない日本の竹添公使は他国の軍が宮廷内にいるのもよくないので、日本兵150を引き上げさせようとしますが、金玉均は大慌てで引きとめます。ここで地方官僚の一人が国王の安否伺いと称してやってきます。朴泳孝は退去を命じましたが、金玉均は問題ないとして参内を許してしまいます。この官僚が国王に金玉均らのクーデターについて讒言し、清軍による警護を依頼することを進めます。そして国王は閔妃の助言もあり、清軍の救援を求めることにしてしまいます。こうして清の袁世凱(えん せいがい)は李朝政府の要請という名目を手に入れることができました。

 12月6日午後一時ごろ、清軍600が王宮に入り、国王に拝謁したいと要請してきました。金玉均は兵を率いて入ることは許さない、と通告します。一時間後、国王一家、金玉均、竹添公使が対清策を協議しているとき、清軍から一通の封書が竹添公使に届けられ、それを開こうとしたとき、「ドーン」砲声が鳴り響き、清軍の攻撃が開始されます。清軍は1400の軍勢で李朝にも400の軍がいましたが、武器が不十分で訓練も行き届いていないため、いたるところで崩れ、日本兵150で清軍を食い止めねばなりませんでした。
 
竹添公使「このまま日本軍をここにとどめれば、国王の身を危険に陥れることになってしまう。したがって日本軍を撤収して我々は宮中から退去すべきだ」

金玉均「それは本末転倒であり、あなたは国王の身を護るために来たのではないか」

この二人のやり取りを聞いていた村上中隊長
「この戦いは必ずしもわが軍に不利とは言えない。わが軍は1をもって清軍10にあたるから、それほどの難事ではない。しかも清兵は散在し、これまでの交戦でもみな勝っている。誓って撃退するから、しばらく国王をここに安泰され、諸侯らも安心してとどまっていただきたい」

 しかし、竹添公使は撤収を指示します。実際、ここまでの戦闘で日本兵は死者1名、負傷者4名を出しただけで清軍は53名の戦死者を出しており、日本兵は勇敢で団結力も強く訓練が行き届いていたのに対し、清軍はバラバラでまとまりがなく、不利になれば即座に逃げる、という具合で、戦闘をよく知っている村上中隊長の言うことは的確といえるでしょう。竹添公使はそもそも学者であり、文民なので、武士のような「覚悟」を持ち合わせていないのと、日本公使館が気になっていたのではないかと思います。
 
 こうして開化党メンバーと竹添公使、日本兵、日本公使館員は仁川へ脱出しました。仁川では護衛艦日進が入港し、陸戦隊を上陸させて居留民の保護にあたっていました。開化党メンバーは千歳丸に乗船し、日本へ亡命することになります。千歳丸の船長・辻勝三郎は金玉均らを船底に隠しました。李朝側が船内の捜索を要求してきて、竹添公使が仕方なく承諾してくると船長・辻勝三郎は断固たる拒否の態度を示したといいます。このとき、開化党メンバーは自刃決行寸前でギリギリのところでした。
 
 金玉均は小笠原の父島にかくまわれましたが、その後北海道に移り、明治23年(1890年)には東京へ移り、福沢諭吉らの援助を受けます。しかし、李朝政府の差し向けた刺客が出没するようになり、明治27年(1894年)3月、金玉均は上海に連れ出され、暗殺されてしまいました。李朝は彼の死体をバラバラにし、数日間獄門にかけた上、全朝鮮に晒し、胴体を川に投げ捨てました。この無道に日本の国論は怒り沸騰します。このことが翌年の乙未事変にも繋がっています。
 



参考文献
 「大東亜戦争への道」中村粲
 「韓国併合への道」呉善花
 「親日派のための弁明」金完燮

添付写真
 金玉均(1882年長崎での写真 PD)
 
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興亜の志士・金玉均先生没後115周年墓前祭
http://www.youtube.com/watch?v=wbCo6EvSEHo