武蔵野はススキ野だった

武蔵野は江戸時代につくられた。




「半ば黄ろく半ば緑な林の中に歩て居ると、澄みわたった大空が梢(こずえ)々の隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末々々に砕け、その美しさを言いつくされず。日光とか碓氷とか、天下の名所は兎に角、武蔵野の様な広い平原の林が隈なく染まって、日の西に傾くと共に一面の火花を放つというも特異の美観ではあるまいか」

 国木田独歩の「武蔵野」の一節です。明治31年(1898年)の作品です。武蔵野の林の美しさを描写した有名な作品でしょう。

 武蔵野より
「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以って絶類の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である」

 「萱」はススキやチガヤ、スゲのなどの総称です。武蔵野は江戸時代より以前は"ススキ野"だったのです。古代からの焼畑農業律令制度の牧場経営のために火入れが繰り返されたためです。
 なぜ武蔵野が林に生まれ変わったのか?それは江戸時代の元禄(1688年〜1703年)の頃、高度成長があり、それを過ぎると幕府は慢性的な財政赤字を抱えることになってしまいました。この対策として八代将軍吉宗(在位:享保元年1716年〜延享2年1745年)が新田を開発して税収を増やす政策を打ち出しました。そこで武蔵野新田を開拓することになったのです。

 それだけだと水田や畑が誕生して「林」は出来ません。「林」が誕生したのはわけがありました。武蔵野台地関東ローム層で、土地が痩せていました。この土地を開墾するには肥料が必要です。江戸時代の肥料は下肥(しもごえ)ですが、これが実に不足していました。肥料に藁(わら)を使うこともできますが、武蔵野台地は川が谷底を流れているため、当時の技術では水田に必要な十分な水をくみ上げることができず、畑が主でした。藁も十分望めません。

 武蔵野より
「武蔵野には決して禿山はない。しかし大洋のうねりの様に高低起伏している。それも外見には一面の平原の様で、寧ろ高台の処々が低く窪んで小さな浅い谷をなして居るといった方が適当であろう。この谷の底は大概水田である。畑は重(おも)に高台にある。高台は林と畑とで様々な区画をなして居る」

 そこで目をつけたのが堆肥(たいひ)です。堆肥の材料は落ち葉です。ですから農民たちは自分に割り当てられた土地の一部に木を植えたのです。

 武蔵野より
「畑は即(すなわ)ち野である。されば林とても数理にわたるものなく否、恐らく一里にわたるものもあるまい、畑とても一眸(いちぼう)数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃(いっけい)の畑の三方は林、という様な具合で、農家がその間に散在して更らにこれを分割して居る。即ち野やら林やら、ただ乱雑に入り組んで居て、忽(たちま)ち林に入るかと思えば、忽ち野に出るという様な風である」

 農民それぞれが林を造ったため、野と林が入り組んでいたわけです。それがまた趣きを作り出していました。

 武蔵野より
「真直ぐな路で両側共十分に黄葉した林が四五丁も続く処に出る事がある。この路を独り静かに歩む事のどんなに楽しかろう。右側の林の頂は夕照鮮かにかがやいて居る。おりおり落葉の音が聞こえるばかり、四辺(あたり)はしんとして如何(いか)にも淋しい。前にも後にも人影見えず、誰にも遭わず。若(も)しそれが木葉落ちつくした頃ならば、路は落葉に埋れて、一足毎にがさがさと音がする。林は奥まで見すかされ、梢(こずえ)の先は針の如く細く蒼空(あおぞら)を指している。猶更(なおさ)らヒトに遭わない。愈々(いよいよ)淋しい。落葉をふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわただしく飛び去る羽音に驚かされるばかり」

 堆肥の材料となる大量の落ち葉が太陽エネルギーにより生産されました。落ち葉に足を踏み入れて音が響くのは堆肥に適したクヌギ、コナラ、クリ、シイといった固くて厚く、繊維質の多い広葉樹の葉だからです。

 武蔵野の勤勉な農民は林を育て、痩せた土地に堆肥を入れ、畑を耕し、次の世代に継承しました。18世紀末には林も大きく育ち、収穫も飛躍的に増え、大都市江戸に穀物や野菜だけでなく、薪や木炭、材木を供給するまでに成長を遂げたのです。



参考文献
 新潮文庫「武蔵野」国木田独歩(著)
 講談社文庫「大江戸リサイクル事情」石川英輔(著)

添付画像
 武蔵野の面影を残す、新座市立新堀小学校の学校教育林。Auth:fitm(CC)

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