自然エネルギーを利用した水車

江戸時代はあらゆるところでリサイクルしていた。




 国木田独歩の明治31年(1898年)の作品「郊外」に「水車」の話がちょっと出てきます。物語は小学校教員の時田先生が下宿しているところから始まっています。下宿家には娘がおり、先生の元教え子の梅ちゃんという子です。

「先生の中二階からはその屋根が少しばかりしか見えないが音はよく聞こえる水車、其処に幸ちゃんという息子がある。これも先生の厄介になッた一人で、卒業してから先生の宅へ夜分外史を習いに来たが今は止して水車の方を働いて居る、尤(もっと)も水車といっても都の近在だけに山国の小さな小屋とは一つにならない、月に十四五両も上がる臼が幾個(いくつ)とか有って米を運ぶ車を曳く馬の六七頭も飼って有る。たいしたものだと梅ちゃんの母親などは終始羨んで居る位で」

 梅ちゃんの母親は水車が羨ましくて仕方がないようです。先生が「そんなら此方でも水車をやったらどうだろう」というと梅ちゃんの母親は「幸ちゃんとこのようにですか、だってあれは株ですものう、水車がそう何時だって出来るもんなら誰だってやりますわ」と答えています。

 梅ちゃんの母親が「株」と言っているのは営業上の特権、資格のことです。水車にも「株」があったとは少し驚きです。江戸時代に問屋株というのがあり、一定規模の商家の営業は株を取得して株仲間に入らなければなりませんでした。これはよく「既得権益を守るため」と強調されますが、それはマルクス主義史観の刷り込みであり、実際は無責任な商売を行う者が出て市場を混乱させることを防ぐためのものです。

 もともと水車は灌漑(かんがい)用に使っていましたが、江戸時代中期になると動力として利用し、精米に使われるようになりました。ただ、灌漑用の水を分流して動力として使うには農民の抵抗があり、水車を使う側と農民とで折り合いが付かなかったケースも多かったようです。このあたりの混乱を避けるために許可制をとったと考えられます。

 明治に入ると蒸気機関が動力として使われるようになりますが、多摩地方では明治35年(1902年)頃から大正時代にかけて水車の新設がちょっとしたブームになっています。ちょうど、梅ちゃんの母親が羨ましがった頃からです。明治34年に53台、35年に49台増えたという記録が残っているそうです。新式の機械だと高価ですが、水車なら安価でニーズが結構あったということなのでしょう。

 現代では水車のように自然エネルギーを使って動力を生み出すものには水力発電太陽光発電風力発電などがあります。クリーンなエネルギーの代名詞のようにいわれますが、これらの設備の製造には莫大な化石燃料を消費させるエネルギーが必要になります。発電装置が装置自身の製造に要するエネルギーと同じ電力を発電する年数のことをEPTというのですが、太陽光発電の多結晶シリコン太陽電池では5,6年だといいます。これに対して水車は木で出来ていますからEPTはほぼゼロです。

 水車は太陽エネルギーによって海や川の水が蒸発し、水蒸気となり雲となり、それが雨となり川となり、位置エネルギーを利用して動力にしたもので、自然の循環を利用しています。水車は木製であり太陽エネルギーによって育ったものです。水輪は15年から20年ぐらいの寿命で、使った後、燃やして処分してもその燃えカスはカリ肥料として利用できるのでゴミになりません。それが又、水車の原料となる木を育てるわけで、ここでも循環しています。昔の人は太陽エネルギーが生み出した循環を巧みに使い、何も減らさず何も増やさず自然と一体化して生きていたと言えるでしょう。



参考文献
 新潮文庫「武蔵野」国木田独歩(著)
 講談社文庫「大江戸リサイクル事情」石川英輔(著)
 日経プレミアシリーズ「江戸のお金の物語」鈴木浩三(著)
添付画像
 富嶽三十六景「隠田の水車」。現在の神宮前周辺にあたり、穏田川にかかる水車を描いたもの(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。