特攻隊を扱った沖縄メディア

語られていなかったカミカゼ


 琉球新報が特攻隊の記事を載せていたのでちょっと驚きました。

特攻隊員の鎮魂碑除幕 大宜味村喜如嘉
2012年5月27日 琉球新報
 1945年4月6日、大宜味村喜如嘉沖での米軍との空中戦で亡くなり、翌7日に喜如嘉の海岸に流れ着いた特攻隊員の寺内博少佐=当時(20)=の遺体を住民らが引き揚げ、埋葬した縁で、妹の浅野綾子さん(86)=東京=が住民への感謝と兄への鎮魂を込めて詠んだ歌碑の除幕式が26日、同地区の農村環境改善センターで行われた。浅野さんは「多くの特攻隊員がいたが、このように手厚く葬られたのは兄一人ではないでしょうか」と言葉を詰まらせた。
 戦火の下、米軍の攻撃を避けるように遺体を引き揚げたのは、当時役場に勤め警防団員でもあった故神山敦三(とんぞう)さんら。大山美佐子区長は「米兵であろうが誰であろうが、親きょうだいはいるだろうとの気持ちで遺体を引き揚げたと聞いている」と語る。50年に復員局から遺骨が戻り、浅野さんと住民の長い縁が始まった。・・・続き http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-191726-storytopic-1.html

 2年前でしたが、6月23日の慰霊の日が近づくと、沖縄メディアのネット記事では「日本軍悪玉論」がジャンジャン掲載されており、驚きました。沖縄のブロ友に「毎年こんなん?」と聞いた覚えがあります。しかし、昨年はほとんど見かけませんでした。東日本大震災自衛隊の活躍が報じられたから遠慮したのでしょう。今年も今のところ見かけません。PAC3の配備が効いているのでしょうか。「軍は国民を守らない」という神話は完全に崩れました。

 埼玉県の臼田智子さん(69歳)は6月23日の慰霊の日に行われる平和祈念慰霊大行進に十数年にわたり参加しています。智子さんの父親、伍井芳夫中佐(当時32歳)は昭和20年、鹿児島の「知覧」から第二三振武隊長として出撃し、沖縄近海で散りました。智子さんの談で次のようなものがあります。

「最近、ようやく沖縄の一部の人達が、父がなぜ戦死したのか分かってくれるようになった」

 沖縄では特攻のことが意外に知られていないということです。沖縄近海で1036人の特攻隊員の命が散ったにもかかわらずです。そればかりか、「特攻隊の任務は沖縄を守ることではなかった」「戦艦大和は沖縄を砲撃するのが目的だった」と信じている若者も少なくないといいます(※1)。教育とメディアの洗脳によるものでしょう。平成19年(2007年)の沖縄タイムス「特集記事 復帰三五年 揺れた島 揺れる島」に次のように書かれていました。

「さて、沖縄に大和が攻め込んできて、世界最大最強といわれたその主砲十六吋(インチ)砲塔九門が一斉に火を吹くと沖縄はどうなっただろうか。想像しただけで瞑目するばかりでさる。おそらく、大和は偵察機による誘導もないので、沖縄中南部の平地に巨大な砲弾をところかまわずに打ち込んだろう。その弾は日米軍ばかりではなく、住民をも打ち砕いたであろう。住民の犠牲者は更に多数に上り、三十万人(当時の人口の半分)にもたっしたのではないかと恐る」「あっ、よかった。戦艦大和が沖縄のはるか北方の海に沈められてよかった」(※2)

 "れいたかし"という人の論説なのですが、仰天することを書いています。これが沖縄の言論空間なのです。それだけに琉球新報が特攻隊の記事を載せたのは驚きとともに少し改善されてきたかと安堵しました。今はネットで情報がとれるので、特攻隊、戦艦大和の目的としていたところ、軍人たちの思いは容易に知ることはできるでしょう。


※1 角川学芸出版「報道されない沖縄」宮本雅史(著)より
※2 ワック出版「歴史通」2010.9月号「大和の心を踏みにじる沖縄」平間陽一 より

添付画像
 昭和20年(1945年)4月12日、知覧基地より出撃する陸軍特別攻撃隊第20振武隊穴沢利夫少尉(のち大尉)操縦の一式戦闘機三型甲「隼」と、それを見送る知覧町立高等女学校(現鹿児島県立薩南工業高等学校)の女学生達(PD)

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【英霊に】 神風特別攻撃隊 魂のルフラン 【捧ぐ】
http://www.youtube.com/watch?v=ge78OW-rYdA