フランスの侵略を受けたベトナム

ベトナムは1000年戦ってきた。



「われわれは一千年も戦ってきた。もし必要とあらば、さらに一千年戦ってみせる」

 これは帝国主義の時代、フランス支配に反抗する愛国的ベトナム人たちの自慢の声です。ベトナムは後のアメリカとの「ベトナム戦争」を戦い抜いており、この言葉がベトナムの歴史と伝統を表しているといえるでしょう。

 ベトナムは歴史のある国で3000年前あるいは4000年前にフン・ヴォン(雄王)が建国したと言われています。支那の支配を1000年受け、独立し、支那の侵略を1000年撃退してきました。しかし、1858年8月31日、ダナン港に侵入してきたフランス軍艦の砲声によってベトナムの歴史は暗転します。フランスの近代兵器による圧倒的な軍事力には全く歯が立たず、植民地支配を受けることになりました。

 それでもベトナムはゲリラ戦による抵抗を試み、ファン・ディン・フン(潘廷逢)、ホアン・ホア・タム(黄花探)、チュオン・コン・ディンといった指導者が奥地を根拠地として抵抗を試みましたが、圧倒的なフランスの軍事力に次第に追い詰められてほとんど活動をなさなくなっていきました。

 植民地支配を受けた民衆は過酷な圧政を受けました。

 <蘭印・英印・仏印> 井出諦一郎 昭和15年11月(GHQ焚書図書開封2より)
「農民は飢餓線上を彷徨しており、その生活費は1日2フラン15セントから1フラン20セントで、手から口への境涯だから何か事があれば直ぐに高利貸しの世話になり、生涯うだつは挙がらない。ジョセフ・F・ワーレン氏のマンダリンロードの旅行記によると『月夜ならば激昂の漏れようというあばら屋に住む百姓は2300万人中の90%』だということであり、その多数の農民達はフランス人4万6千名中1万1千名が兵隊、文官4千7百名、残りが産業関係者と女子供という少数者によってこんな有様に搾取されているのである」

 一部の上流ベトナム人はフランスへ留学することができました。しかし、フランスで自由、平等、人権を学んできて帰国したベトナム人青年は迫害されました。

 <インドシナSOS>アンドレヴィオリス 昭和17年(GHQ焚書図書開封2より)
「彼は民主主義的思想を持って帰り、フランスとの協力をしようと考えていた。船から上がると、すべての『フランス帰り』と同じようにたちまち彼も迫害と屈辱の的になってしまった。彼の言うには新聞を創刊し、それによって、彼が私たちフランス人から教えられた原理に従い、人間としての権威にかくべからざる最小限度の自由を穏やかな調子で主張しはじめたのだった」

 新聞を創刊した青年は迫害を受けます。フランスの総督府は印刷所に命じて印刷しないようにしたり、郵便局には配送しないようにしたり、そして遂に青年は逮捕されました。フランスはベトナム人の目と耳と口を塞いでいたのです。後に、独立運動を展開するファン・ボイ・チャウ「フランス人はもっぱらわが国民を愚にしてその眼をふさがんとするの政策を用い、唖盲の病はさらに従前に倍したという有様」と語っており、徹底的に情報統制を行いました。大東亜戦争のときも「今次大戦を人種戦争とする、すべての記事」を検閲によって削除していました。

 ベトナム人は愚民化政策によって牙を抜かれていき、フランス人の忠実な下僕として生きることを強要されていきました。

 白人には勝てないのか?そんな時、アジアの小国、日本が日露戦争で白人の大国ロシアを打ち破るという出来事がおきます。有色人種が初めて白人に勝ったのです。有色人種は白人より劣ると教えられてきましたが、それはウソだとベトナム人は考えるようになりました。この日露戦争が転機となり、ベトナムの歴史の大転換が始まりました。



参考文献
 中公新書「物語 ヴェトナムの歴史」小倉貞男(著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 ウェッジ「特務機関長 許斐氏利」牧久(著)
 日新報道「53年目の仏印戦線」佐野裕二(著)
添付画像
 1910のサイゴンの通り(PD)

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