シンガポールへ、シンガポールへ

合言葉はシンガポールへ、シンガポールへ。


 昭和16年(1941年)12月2日、大本営から山下兵団に「ヒノデハヤマガタ」の暗号電文が到着。12月8日、日本軍はマレー半島東海岸、タイ領のシンゴラ、タベー、バタニ、そしてマラヤ領のコタバルへ上陸しました。日本軍は破竹の快進撃により1月31日にはマレー半島ジョホールバルへ突入し、占領。そして最終目標のシンガポールを目前とします。

 山下兵団長は北東からシンガポールへ上陸すると見せかけ、2月8日にゴム林に隠しておいた兵団に北西からシンガポールへ上陸させました。11日には本軍はブキッ・ティマ地区を、連合軍の弾薬・燃料の貯蔵のほとんどとともに占領します。また水源地も確保しました。しかし実は日本軍は弾薬がつきかけており、山下兵団長は2月15日にすべてをかけます。

 上陸した島田戦車隊
「乗員たちは3日の絶食と、睡眠不足と暑さと、砲弾に閉じ込められて、早く死んだほうがまだ、ましだ、と生きる苦しみから逃れようともがいていたのだ」

「今日は2月14日だな」「攻撃はまだですか。これではどちらが攻撃しているのかわかりません」
 2月15日払暁、遂に攻撃開始。墓地高地で激戦となります。ところがしばらくして敵はあっさり白旗をあげました。前線の兵士は「何だ今更」と怒りを表すもの、「万歳」を叫ぶもの、死んだ戦友を思い、涙を流すもの、様々いたといいます。この後、山下将軍が敵将パーシバルに「イエス」か「ノー」かと突きつける有名な会見となります。

 この山下将軍の「イエス」か「ノー」かとういのは倣岸に見えますが、日本軍には弾がないという事情がありました。しかも、日本軍は3個師団の4万弱であり、シンガポール防衛軍は10万。さらに英軍の増援部隊が到着するという情報もありました。英軍のパーシバル将軍は会見時間18時から30分も遅れて到着し、会見では無条件降伏を承認しながら「停戦時間を明日まで待ってくれ」と言うのです。これでは信用できません。

 山下将軍
「英軍は日本の兵力を5個師団以上と過大視していた。だからそんなことで時を費やし、味方の劣勢を気づかれてはと思うと、私は正直なところ気が気ではなかった。私としてはどうしてもあの場で、即時、無条件降伏させねばと思った」

 会談後に山下将軍が副官に漏らした言葉。
「パーシバルがあまりにも青白い顔つきで気分もすぐれないようなので、最後に分かれの握手をしながら、何か一言いたわりの言葉をかけようとしたのだが、自分は英語が話せないし、第三者を通したのではこちらの真意が通じないと思ってやめた」

 山下将軍は入城式は行わず、シンガポール陥落4日後の2月19日に慰霊祭を行い敬虔な慰霊の辞を述べています。
「敵味方の戦死者と戦争に巻き込まれて死去された市民の霊に申し上げます」

 山下・パーシバル会見の場面は、シンガポール沖のセントーサ島シンガポール政府が開設した戦争博物館に原寸大の精巧な日本製蝋人形で再現されています。この蝋人形は靖国神社遊就館にあったもので、シンガポール政府観光開発局が昭和56年に歴史資料館でぜひ飾りたいといって譲ったものです。机は対談の時に使った実物でオーストラリア軍の寄贈だそうです。



参考文献
 「アジアに生きる大東亜戦争ASEANセンター編
 「日本人よありがとう」土生良樹著
 「サムライ戦車隊長」島田豊作著

添付画像
 山下・パーシバル両司令官会見(PD)

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敵軍遂に白旗揚ぐ
http://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI